「善とは何か」「慈悲とは何か」——こうした実践のテーマを取り扱う場合は、実践に基づいた実感覚が欠かせないんですね。
言い換えると、瞑想・スピリチュアルで観念化してはいけないということになります。
ですが、本を読んで学んだこと、教えとして理解していること。これらは「頭での知識」になるんですが、この知識を「善」であるとか「慈悲」ととらえている方は多いかもしれません。
ですが、ここに、瞑想やスピリチュアルの探求において陥りやすい落とし穴があります。それが「観念化」なんですね。
観念化とは、実体験を伴わないまま、頭での理解・考え・思いをリアリティとして受け止めてしまうこと。瞑想や宗教の界隈でこれが起きると、役に立たないどころか、争い・不和・慢心という思わぬ方向に進んでいくことがあります。
善や慈悲や愛というものは、やわらかいものなんですね。理屈で相手を正そうとするものではなく、実践を重ねる中で内側から自然ににじみ出てくるものだったりします。
こうしたことは宗教の歴史を見ると、このことの重要さが浮かび上がってきます。
この記事では、観念化がなぜ危ういのか、そして実践を通じてこそ善・慈悲の感覚が開かれていく理由を、主催者自身の体験も交えてお伝えします。
慈悲による11の効果効能が驚異的!~パーリ仏典 増支部経典 十一集 第二臆念品 十六「慈」
瞑想で徳・善の感覚がわかる|リラックスが大切な理由
観念に陥りにくい瞑想の実践実習~4つの実践
瞑想では「実践実習」が大事になってまいります。もう、ここが中心なんですね。
私の方では、それを「四つの実践」という形でまとめています。
これは、原始仏教、テーラワーダ仏教を軸にしながら、私なりに換骨奪胎した実践項目です。内容そのものは、仏教だけに限らず、世界中の宗教や、陽明学のようなものにも共通する実践実習になります。
体感を高める真我系ヒーリングを導入
中でも特徴的なのが、天啓気療やSさんのセッションです。
私はこれを「真我系ヒーリング」と呼んでいますが、これを導入しているところが、非常に特徴的なんですね。
ある意味では、これは期間限定のヒーリング(実践実習)でもあります。
人は観念・思いの世界を現実と勘違いする
ただ、やはり大事なのは、本当にコツコツコツコツと実践実習していただくことなんです。
では、なぜそこまで実践実習が大切なのか。
時々お話ししていますけれども、人間というのは、思いの世界、考えの世界、想像の世界、観念の世界に入り込んでしまいやすいんですね。
で、その思いの世界で作り上げたもの(観念、イデオロギー)を、事実、実態であるかのように思い違えてしまうことが多い。
これは本当に多いんですね。
しかし、これが間違いの始まりにもなります。
文字で理解した善を「善」だと思ってしまう
一番わかりやすい例が「善」です。
善。良いことですね。
「善」と聞くと、多くの方は、道徳的で、マニュアル化されて、文字化されたものを思い浮かべます。
いかにも正しそうで、ガチガチに人をその枠にはめ込むような「教条化」された教え。
まさに道徳。
でも、そうではないんですよね。
少なくとも私は、善というのは、そういうものではないと感じています。
善というのは、もっともっと体感的なところから生じてくるものです。頭で「これは善である」と理解するものというより、実際の体験の中で、内側からわかってくるものなんですね。
観念や思いでスピリチュアルを追求すると争いが生まれる
瞑想や宗教やスピリチュアルの界隈では、観念や思い、考えで作り上げたものを、リアリティであるかのように勘違いしてしまうのは、やはり多いんです。
けれども、それでは率直に言って役に立ちません。
役に立たないどころか、マイナスの方に進んでいくことがあります。
なぜかというと、観念や概念、考えで把握すると、必ずと言っていいほど、そこに争いが出てくるからなんですね。
物事を自分の実体験ではなく、まず理解で受け止める。考えで受け止める。概念で受け止める。
すると観念化が始まりますが、観念という作業は、線引きになります。「あれ」と「これ」といった具合に。情報の整理とでもいっていいでしょう。
しかし、この線引きが二分化を引き起こし、争いを生じやすくさせていきます。また攻撃心を生み出す。そうして、
「あなたの考えは違う」
「その解釈は間違っている」
そういう衝突が起きるようになってくるんですね。
観念化が招く宗教の争いの歴史
たとえば、キリスト教を引き合いに出して申し訳ないのですが、キリスト教の歴史には、まさにそういう側面があります。
異教徒を攻撃する。ときに殺戮すら行う。信仰している宗教が違うという理由だけで。悪魔呼ばわりもします。
これが、観念化が引き起こす最たる惨事ですね。
また聖書をどう解釈するか。教えをどう理解するか。その違いによって、数多くの分派が生まれ、争いも起きてきました。
以前読んだ本に、キリスト教は愛を説きながら、身内での争いが非常に多い宗教である、というような説明がありました。
これは、足払いをかけられてすってんころりんした有り様でもありますが、ある意味で急所を突いた言い方になります。
愛を説いているにもかかわらず、理解や解釈の違いによって争いが起きてしまう。
つまり、理解で捉えていくと、どうしても衝突や不和が生まれやすくなるんですね。
観念的になると愛・やわらかさ・ユーモラスさが育ちにくくなる
そうなってくると、愛であるとか、ユーモラスであるとか、ほっこりとか、ゆったりとか、にっこりとか、そういったところから離れていきます。
本来、善や慈悲や愛というのは、もっとやわらかいものになります。内側から自然ににじみ出てくるものですね。
ですので、まずは体験ありきなんです。実践ありきなんです。
実践していく中で、自分の中に体感されてくる。
「ああ、善ってこういうことなんだな」
「優しさってこういうことなんだな」
「愛とか慈悲って、こういうことなんだな」
そういうことを、自分で直接体験していくことが、本当に大切なんです。
そして、その体験を通して、
「慈悲というのは、こういうものなんです」
と説明できるようになれば、大したものです。
そういうところまで、ぜひ深めていただきたいと思っています。
哲学者・思想家たちも体験を言語化しようとしてきた|観念化の系譜
実体験を伴わない観念化が危うい、ということをここまでお伝えしてきました。
しかし、ここで一つ興味深い視点があります。それは、体験そのものは実在しても、その体験を言語化した瞬間から「観念化」が始まってしまうという構造です。
西洋・東洋を問わず、哲学者や思想家の中には、自ら神秘体験・覚醒体験を経験し、それを言語化・体系化しようと試みた人物が数多くいます。
これは非常に興味深いことです。体験そのものは言語を超えているにもかかわらず、それを何とか言葉に落とし込み、体系化しようとする——この営みの中に、観念化の可能性と危うさの両方が見えてくるからです。
ここでは、その代表的な事例を見ていきたいと思います。
プロティノス(205頃〜270)|「一者」との合一体験
新プラトン主義の創始者であるプロティノスは、「一者(ト・ヘン)」との合一体験を繰り返し持ち、それを主著「エネアデス」に詳述しました。
弟子のポルフュリオスが書き残した「プロティノス伝」によれば、プロティノス自身は生涯に4度この合一体験(エクスタシス)を経験したとされています。プロティノスはこの境地を「単独者から単独者への飛翔」と表現しました。
浄化(カタルシス)→観想(テオーリア)→合一(エクスタシス)という三段階を経て一者へ至る、というプロティノスの整理は、体験の言語化として非常に体系的なものです。
しかし、この体系化そのものが、後世の新プラトン主義者たちの間で教義として固定化していく一因にもなりました。体験した本人による整理ですら、後世では「観念」として受け継がれていくのです。
プロティノスとは?一者・神秘体験・新プラトン主義をわかりやすく解説
マイスター・エックハルト(1260頃〜1328)|神性への沈潜
ドミニコ会の神学者・神秘家であるエックハルトは、「魂の根底と神の根底は一つ」という神秘体験を、膨大な説教・著作の中で言語化しました。
その大胆な表現は当時のカトリック教会から異端の疑いをかけられるほどでしたが、後世の神秘主義思想に多大な影響を与えています。
ヤコブ・ベーメ(1575〜1624)|光の中に見た根源
ドイツの靴職人であったベーメは、1600年頃に「光の中に根源を見た」という覚醒体験を経験。それを「アウロラ(曙光)」などの著作に言語化しました。
正規の神学教育を受けていない一靴職人の体験記が、後にシェリングやヘーゲルといったドイツ観念論の哲学者たちに強い影響を与えています。
このことは、体験を言語化(観念化)したことの持つ力を物語っています。
バルーフ・スピノザ(1632〜1677)|直観知としての神即自然
スピノザの「神即自然(デウス・シウェ・ナトゥーラ)」という汎神論的直観は、彼自身が「直観知(第三種の認識)」と呼んだ認識のあり方に基づくとされています。
研究者の中には、スピノザを単なる合理主義哲学者ではなく神秘家として位置づける者もいます。「エチカ」という幾何学的な体系書のスタイルの奥に、神秘的な直観が流れているという見方です。
エマニュエル・スウェーデンボルグ(1688〜1772)|霊界との交流
スウェーデンの科学者・神学者であったスウェーデンボルグは、56歳頃から霊界との交流体験が始まり、それを膨大な霊界見聞録として著しました。
カントが「視霊者の夢」で批判的に論じたことでも知られていますが、その後の心霊主義・スピリチュアリズムに大きな影響を残しています。
ウィリアム・ブレイク(1757〜1827)|幼少期からのビジョン
英国の詩人・画家であったブレイクは、幼少期から天使のビジョンを見たと伝えられ、その神秘的ビジョンをもとに「ミルトン」「エルサレム」などの預言書的な作品を著しました。
フリードリヒ・シェリング(1775〜1854)|絶対者との知的直観
ドイツ観念論の哲学者シェリングは、「絶対者との知的直観」という概念を提唱しました。これは神秘体験的な直接認識に基づくものとされ、ヤコブ・ベーメから強い影響を受けています。
トーマス・カーライル(1795〜1881)|永遠の否定から永遠の肯定へ
スコットランドの思想家カーライルは、「永遠の否定」から「永遠の肯定」への劇的な意識転換体験を、「衣装哲学(サーター・リザータス)」に自伝的な形で記しています。
トーマス・カーライル『衣装哲学(サーター・リサータス)』は覚醒体験の記録だった|永遠の否定から永遠の肯定へ
ウィリアム・ジェームズ(1842〜1910)|体験を学問的に体系化する
アメリカの哲学者・心理学者ジェームズは、自身も神秘的体験を持ちながら、「宗教的経験の諸相」で神秘体験を哲学的・心理学的に初めて体系的に論じました。
神秘体験の四つの特性——言語不能性・知的性質・一時性・受動性——を提示したことで知られており、後の宗教学・心理学における神秘体験研究の基礎を作りました。ジェームズ自身、体験を学問的に分類すること自体に細心の注意を払っていた人物でもあります。
アンリ・ベルクソン(1859〜1941)|開かれた魂としての神秘家
フランスの哲学者ベルクソンは、「道徳と宗教の二源泉」で神秘家の体験を論じ、キリスト教神秘家の体験を「開かれた魂」の典型として高く評価しました。
シモーヌ・ヴェイユ(1909〜1943)|突然のキリストの臨在
フランスの哲学者・神秘思想家ヴェイユは、アッシジで突然キリストの臨在を感じる体験を持ち、その体験を「重力と恩寵」「神を待ちのぞむ」に言語化しています。
日本の哲学者・思想家にも同じ系譜がある
この系譜は西洋に限ったことではありません。日本の哲学者にも同様の事例があります。
西田幾多郎(1870〜1945)|純粋経験
日本哲学の祖とされる西田幾多郎は、禅の修行を通じて得た「純粋経験」——主客未分・思惟以前の直接体験——を哲学的に言語化し、「善の研究」を著しました。
西田のいう純粋経験とは、思考や言語を介在させる以前の直接的な体験であり、主観と客観の区別がない状態とされています。これは真我体験の理解にも通じる、非常に重要な概念です。
鈴木大拙(1870〜1966)|禅の悟りを世界へ
禅研究者・思想家の鈴木大拙は、禅の悟り体験を英語で世界に発信し、「禅と日本文化」「禅の研究」などで体験の本質を言語化しました。
井筒俊彦(1914〜1993)|意識が消えて森羅万象と一体化する
イスラーム学者・哲学者の井筒俊彦は、自身の覚醒体験について次のように語っています。
「自分の意識がすべて消え、ただ自分が存在するという感覚だけになってしまった。すると、森羅万象すべてのものが自分と同じ存在としかいいようのないものになった」
この体験を土台に、スーフィズム・禅・ヴェーダーンタを横断する独自の神秘哲学を構築しました。
新渡戸稲造(1862〜1933)|クエーカーの宗教体験
武士道研究者・思想家の新渡戸稲造は、クエーカーへの入信前後に深い宗教的体験を持ち、それが「武士道」「修養」などの著作に反映されています。
新渡戸稲造とは何をした人か?|武士道・国際連盟・17歳の見神体験と宇宙意識の生涯
この系譜から見える、観念化の可能性と危うさ
ここまで紹介した哲学者・思想家たちには共通点があります。
体験そのものは言語を超えているにもかかわらず、それを何とか言語化・体系化しようと試みたという点です。
これは決して悪いことではありません。体験を言語化することで、他者にその一端を伝え、後世の探求者の道しるべとなる——これは大きな貢献です。西田幾多郎の「純粋経験」、井筒俊彦の覚醒体験の記述は、まさにそうした貢献の例です。
しかし、ここにこそ「観念化」の危うさが表裏一体になっています。
体験を言語化した瞬間、その言葉は一つの観念・教義として独立し始めます。本人がどれほど正確に言語化しようとしても、言葉は体験そのものではありません。
そして、その言葉だけを受け取った後世の人々が、体験を経ずに観念だけを信奉するという事態が起きやすくなります。
プロティノスの三段階説(浄化→観想→合一)が新プラトン主義者たちの間で教条的に体系化されていったように、また新プラトン主義がやがてキリスト教神学との対立・融合の歴史をたどっていったように——体験の言語化は、常に観念化への入り口でもあるのです。
これは、何かを深く体験し、それを言葉にして伝えようとした誠実な人たちの足跡でもあります。
だからこそ、観念化は単純に「悪いもの」として切り捨てられるものではないんですね。むしろ、体験と言語化のあいだに横たわるこの緊張関係を理解しておくことが、実践を続ける上で大切です。
これらの哲学者・思想家たちの事例から学べることは、体験の言語化そのものを否定する必要はないが、言語化された観念にとらわれて、実体験から離れてしまうことには注意が必要だということです。
頭での理解だけで「悟りとはこうだ」「真我とはこうだ」と納得してしまうことと、実際にその境地に至ることは、まったく別のことなんですね。
優れた哲学者・思想家たちでさえ、体験を言葉に収めることに苦心し、そして後世にはその言葉だけが観念として独立し、教条化していく。
この歴史が繰り返されてきたことを知っておくと、自分自身が観念化に陥っていないかを振り返るための、よい手がかりになると思います。
観念化しているかどうか|5つのチェックリスト
ところで「観念化してはいけない」とわかっていても、自分が観念化しているかどうかは、なかなか気づきにくいものかもしれませんね。
そこでチェックリストを作成してみました^^;これは便宜的なものですが、一応の目安といいますか、参考になるんじゃないかと思います。
- 他人に対するやさしさ・うるおい・丁寧さ・親切さ・気配りが薄い
瞑想をしても、他人に対する善きアクションが少ないか無い。 - 自分の解釈や理解へのとらわれが非常に強い
教えや信条を信じる・守るを超えて「絶対にこれは正しい」「この解釈こそが正しい」という強いこだわりがある。執着が強い状態です。 - 実践よりも学習・情報収集に時間を使っている
本を読む、動画を見る、情報を集めることには熱心でも、実際に取り組む時間が少ない。 - スピリチュアルや宗教の話になると熱くなり、争いになりやすい
自分の考えや信条を話すとき、防衛的になったり、相手を論破しようとする。 - 体感よりも言語化・理論化の方が得意・好き
実践実習よりも、理解すること・説明することの方が心地よく感じる。
これらは「とらわれ」「怒り」「不活発」が強いと、このようになりがちです。また慈しみや善への取り組みを先延ばしにしたり、億劫がっていても、似たようなことが起きます。
また、実践実習の途上でも、上記のようなことは起き得ます。この場合は、発展途上であることを理解し、いたずらに自分を責めることはしないでください。実践実習をされている方は、その実践実習を続けていってください。
それと、自分を責めるためのリストではありません。気づくことによって、実践を大切にするための目安ですね。
観念化に気づきやすいのは、意外にも「熱心に追求している人」だったりします。真剣に求めているからこそですね。
まずは実践に取り組む姿勢を理解する
ただし、大事なのは、実践実習に取り組む姿勢です。
理解や考えだけで、宗教的な体験や形而上の概念を捉えようとすると、間違いや勘違いが起きやすくなります。
取り違えが起きるだけではありません。
争い、不和、攻撃心。
そうしたものも生まれやすくなるんですね。
これは、宗教の歴史を見ても、浮かび上がってくる事実です。
私が時々、
「スピリチュアルはよくありません」
「思想・哲学だけではよくありません」
というようなことを言うのは、こういう理由があるからなんですね。
もちろん、思想や哲学そのものを全否定しているわけではありません。
ただ、実体験を伴わないまま、観念だけで宗教性や霊性を追い求めていくと、危うい方向に進んでしまうことがあるんですね。
善や慈悲を語っているつもりが、実際には自分の理解や解釈にこだわり、人と争ってしまう。
これでは、本末転倒なんですね。
ですので、ぜひ実践実習を中心にしていただきたいと思います。
まず実践する。
体験する。
その中で、体感を通してわかってくる。
善とは何か。
慈悲とは何か。
愛とは何か。
頭の理解ではなく、自分の内側で感じていく。
この姿勢、有り様が大切ということなんですね。
方針や姿勢がよく理解できるようになるだけでも、不毛な虚妄な宗教談義や議論をしなくなります。
ええ、このようになることが最初のステップともいえますね^^

