瞑想・スピリチュアルで観念化してはいけない理由|実践なき理解の落とし穴

「善とは何か」「慈悲とは何か」——こうした実践のテーマを取り扱う場合は、実践に基づいた実感覚が欠かせないんですね。

言い換えると、瞑想・スピリチュアルで観念化してはいけないということになります。

ですが、本を読んで学んだこと、教えとして理解していること。これらは「頭での知識」になるんですが、この知識を「善」であるとか「慈悲」ととらえている方は多いかもしれません。

ですが、ここに、瞑想やスピリチュアルの探求において陥りやすい落とし穴があります。それが「観念化」なんですね。

観念化とは、実体験を伴わないまま、頭での理解・考え・思いをリアリティとして受け止めてしまうこと。瞑想や宗教の界隈でこれが起きると、役に立たないどころか、争い・不和・慢心という思わぬ方向に進んでいくことがあります。

善や慈悲や愛というものは、やわらかいものなんですね。理屈で相手を正そうとするものではなく、実践を重ねる中で内側から自然ににじみ出てくるものだったりします。

こうしたことは宗教の歴史を見ると、このことの重要さが浮かび上がってきます。

この記事では、観念化がなぜ危ういのか、そして実践を通じてこそ善・慈悲の感覚が開かれていく理由を、主催者自身の体験も交えてお伝えします。

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観念に陥りにくい瞑想の実践実習~4つの実践

瞑想では「実践実習」が大事になってまいります。もう、ここが中心なんですね。

私の方では、それを「四つの実践」という形でまとめています。

本当に自分が変わる・瞑想「4つの実践」とは?

これは、原始仏教、テーラワーダ仏教を軸にしながら、私なりに換骨奪胎した実践項目です。内容そのものは、仏教だけに限らず、世界中の宗教や、陽明学のようなものにも共通する実践実習になります。

体感を高める真我系ヒーリングを導入

中でも特徴的なのが、天啓気療Sさんのセッションです。

私はこれを「真我系ヒーリング」と呼んでいますが、これを導入しているところが、非常に特徴的なんですね。

ある意味では、これは期間限定のヒーリング(実践実習)でもあります。

瞑想を深める方法|真我系ヒーリングが役立つ理由

人は観念・思いの世界を現実と勘違いする

ただ、やはり大事なのは、本当にコツコツコツコツと実践実習していただくことなんです。

では、なぜそこまで実践実習が大切なのか。

時々お話ししていますけれども、人間というのは、思いの世界、考えの世界、想像の世界、観念の世界に入り込んでしまいやすいんですね。

で、その思いの世界で作り上げたもの(観念、イデオロギー)を、事実、実態であるかのように思い違えてしまうことが多い。

これは本当に多いんですね。

しかし、これが間違いの始まりにもなります。

文字で理解した善を「善」だと思ってしまう

一番わかりやすい例が「善」です。

善。良いことですね。

「善」と聞くと、多くの方は、道徳的で、マニュアル化されて、文字化されたものを思い浮かべます。

いかにも正しそうで、ガチガチに人をその枠にはめ込むような「教条化」された教え。

まさに道徳。

でも、そうではないんですよね。

少なくとも私は、善というのは、そういうものではないと感じています。

善というのは、もっともっと体感的なところから生じてくるものです。頭で「これは善である」と理解するものというより、実際の体験の中で、内側からわかってくるものなんですね。

観念や思いでスピリチュアルを追求すると争いが生まれる

瞑想や宗教やスピリチュアルの界隈では、観念や思い、考えで作り上げたものを、リアリティであるかのように勘違いしてしまうのは、やはり多いんです。

けれども、それでは率直に言って役に立ちません。

役に立たないどころか、マイナスの方に進んでいくことがあります。

なぜかというと、観念や概念、考えで把握すると、必ずと言っていいほど、そこに争いが出てくるからなんですね。

物事を自分の実体験ではなく、まず理解で受け止める。考えで受け止める。概念で受け止める。

すると観念化が始まりますが、観念という作業は、線引きになります。「あれ」と「これ」といった具合に。情報の整理とでもいっていいでしょう。

しかし、この線引きが二分化を引き起こし、争いを生じやすくさせていきます。また攻撃心を生み出す。そうして、

「あなたの考えは違う」
「その解釈は間違っている」

そういう衝突が起きるようになってくるんですね。

観念化が招く宗教の争いの歴史

たとえば、キリスト教を引き合いに出して申し訳ないのですが、キリスト教の歴史には、まさにそういう側面があります。

異教徒を攻撃する。ときに殺戮すら行う。信仰している宗教が違うという理由だけで。悪魔呼ばわりもします。

これが、観念化が引き起こす最たる惨事ですね。

また聖書をどう解釈するか。教えをどう理解するか。その違いによって、数多くの分派が生まれ、争いも起きてきました。

以前読んだ本に、キリスト教は愛を説きながら、身内での争いが非常に多い宗教である、というような説明がありました。

これは、足払いをかけられてすってんころりんした有り様でもありますが、ある意味で急所を突いた言い方になります。

愛を説いているにもかかわらず、理解や解釈の違いによって争いが起きてしまう。

つまり、理解で捉えていくと、どうしても衝突や不和が生まれやすくなるんですね。

観念的になると愛・やわらかさ・ユーモラスさが育ちにくくなる

そうなってくると、愛であるとか、ユーモラスであるとか、ほっこりとか、ゆったりとか、にっこりとか、そういったところから離れていきます。

本来、善や慈悲や愛というのは、もっとやわらかいものになります。内側から自然ににじみ出てくるものですね。

ですので、まずは体験ありきなんです。実践ありきなんです。

実践していく中で、自分の中に体感されてくる。

「ああ、善ってこういうことなんだな」

「優しさってこういうことなんだな」

「愛とか慈悲って、こういうことなんだな」

そういうことを、自分で直接体験していくことが、本当に大切なんです。

そして、その体験を通して、

「慈悲というのは、こういうものなんです」

と説明できるようになれば、大したものです。

そういうところまで、ぜひ深めていただきたいと思っています。

観念化しているかどうか|5つのチェックリスト

ところで「観念化してはいけない」とわかっていても、自分が観念化しているかどうかは、なかなか気づきにくいものかもしれませんね。

そこでチェックリストを作成してみました^^;これは便宜的なものですが、一応の目安といいますか、参考になるんじゃないかと思います。

  • 他人に対するやさしさ・うるおい・丁寧さ・親切さ・気配りが薄い
    瞑想をしても、他人に対する善きアクションが少ないか無い。
  • 自分の解釈や理解へのとらわれが非常に強い
    教えや信条を信じる・守るを超えて「絶対にこれは正しい」「この解釈こそが正しい」という強いこだわりがある。執着が強い状態です。
  • 実践よりも学習・情報収集に時間を使っている
    本を読む、動画を見る、情報を集めることには熱心でも、実際に取り組む時間が少ない。
  • スピリチュアルや宗教の話になると熱くなり、争いになりやすい
    自分の考えや信条を話すとき、防衛的になったり、相手を論破しようとする。
  • 体感よりも言語化・理論化の方が得意・好き
    実践実習よりも、理解すること・説明することの方が心地よく感じる。

これらは「とらわれ」「怒り」「不活発」が強いと、このようになりがちです。また慈しみや善への取り組みを先延ばしにしたり、億劫がっていても、似たようなことが起きます。

また、実践実習の途上でも、上記のようなことは起き得ます。この場合は、発展途上であることを理解し、いたずらに自分を責めることはしないでください。実践実習をされている方は、その実践実習を続けていってください。

それと、自分を責めるためのリストではありません。気づくことによって、実践を大切にするための目安ですね。

観念化に気づきやすいのは、意外にも「熱心に追求している人」だったりします。真剣に求めているからこそですね。

まずは実践に取り組む姿勢を理解する

ただし、大事なのは、実践実習に取り組む姿勢です。

理解や考えだけで、宗教的な体験や形而上の概念を捉えようとすると、間違いや勘違いが起きやすくなります。

取り違えが起きるだけではありません。

争い、不和、攻撃心。

そうしたものも生まれやすくなるんですね。

これは、宗教の歴史を見ても、浮かび上がってくる事実です。

私が時々、

「スピリチュアルはよくありません」

「思想・哲学だけではよくありません」

というようなことを言うのは、こういう理由があるからなんですね。

もちろん、思想や哲学そのものを全否定しているわけではありません。

ただ、実体験を伴わないまま、観念だけで宗教性や霊性を追い求めていくと、危うい方向に進んでしまうことがあるんですね。

善や慈悲を語っているつもりが、実際には自分の理解や解釈にこだわり、人と争ってしまう。

これでは、本末転倒なんですね。

ですので、ぜひ実践実習を中心にしていただきたいと思います。

まず実践する。

体験する。

その中で、体感を通してわかってくる。

善とは何か。

慈悲とは何か。

愛とは何か。

頭の理解ではなく、自分の内側で感じていく。

この姿勢、有り様が大切ということなんですね。

方針や姿勢がよく理解できるようになるだけでも、不毛な虚妄な宗教談義や議論をしなくなります。

ええ、このようになることが最初のステップともいえますね^^

瞑想の仕方は毎月の瞑想会でお教えしています。初心者から参加できます。ご興味があればお問い合わせください。

 

浜松の瞑想「ゆるっと瞑想会」

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