感受性を高める方法|慈悲・やさしさで感じる力を育てる瞑想実践

感受性を高める実践は「お気楽系」「ゆるっと系」

私がおすすめしているやり方は、いわば「お気楽系」というか、「ゆるっと系」のやり方なんですね。

人によっては、それを「ぬるい」と感じる方もいらっしゃるかもしれません。

そのあたりは、人それぞれの好みというか、修行に対する嗜好もあると思います。いろいろな受け止め方がありますね。

ただ、私はこうした瞑想をはじめとした修行の界隈を長く見てきて、やはり「厳しさ」や「しごき」のようなものを中心にした実践には、感心できないなあ、慎重に向き合った方がいいなあ感じています

感受性を育てるには厳しい修行は時代に合わない

瞑想やボディワークの実践を、しばくような環境、緊張がみなぎったような環境で行う。

そういう厳しい系、ハード系、しごき系、過緊張系のやり方は、少なくとも現代においては、あまり適切ではないのではないかと思っています。

だからこそ、私は「ゆるっと」という言葉を使っているんですね。

これは単なる名前ではなく、私の基本的な姿勢を表明した言葉でもあるんですね。

「ゆるり」とやっていく。

ゆるっとした実践で感じる力を育てる

この「ゆるっと」「ゆったりとしていく」という文脈は、ある意味では、感じる力、感受性を大切にする文脈なんですね。

もともと感受性の高い方には、かなり合っています。

もちろん、そうでない方であっても、毎日毎日、瞑想を続けていくことによって、感じる力、感受性は少しずつ育まれていきます。

これは、実際にやり続けていく中でわかってくることなんですね。

やっていない段階で、頭だけであれこれ考えても、なかなか話が進まないところがあります。

実践していく中で、

「ああ、こういうことか」

と、体でわかってくるものですね。

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感受性がないと「ゆるさ」は「だらしない」になる

ただし、この「ゆるり」という言葉も、受け止め方によっては、だらしないとか、怠惰であるとか、そういうふうに解釈されるかもしれません。

でも、もちろんそういう意味ではありません。

力を抜くことと、だらしなくなることは違います。

緊張を手放すことと、実践をいい加減にすることも違います。

適度な「ゆるさ」「リラックス」の裏には、感受性があります。ですので、感受性があれば、だらしなくなることはないんですね。

このあたりは、履き違えないでいただきたいところですね。

それこそ実践実習を通して、本当の意味の「ゆるさ」「リラックス」をつかんでいただきたいと思います。

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昔は厳しい体罰で感受性を高めようとした

昔は、宗教の世界では、大変厳しい指導が行われていました。

たとえば禅の修行の世界。

中でも昔の臨済宗の修行には、肉体的な体罰を伴うような指導もありました。

今の感覚から見ると、かなり乱暴です。

ただ、あれはおそらく、昔の人たちの感じる力、気づく力を高めるための、非常に古い方法だったのではないかと思うんですね。

言葉で言っただけではピンとこない。気づかない。気づけない。

鉄拳を奮うことで、肉体的に強い刺激を与えることで、ハッとさせる。

その衝撃によって、気づく力を、感受性を呼び起こそうとした。

おそらくそうではないかと思っています。

そういうのがあったため、昔は暴力的な指導も横行していたのではないかと思います。

懺悔・反省によって感受性を育てる道もある

暴力の次にあるのが、自己否定感を高める「懺悔反省」の道です。

神様の前で懺悔反省をさせる、自分の罪に気づかせる、というやり方がありました。

「悔い改め」ですね。

「懺悔」「悔い改める」という文脈の中で、徹底的に自己を否定し、自分の罪を感じる。

自分の至らなさに気づく。気づかせる。

自分の行いを振り返り、恥じるべきものを恥じる。

申し訳なさを感じる。

自分は罪深い人間なんだということを、心底、抱かさせる。

「罪」「悪」という感覚を生み出すことによって、感受性を高める。

そうした実践は、宗教の世界では昔からあります。

キリスト教にも、イグナチオ「霊操」にみられるように、自分の罪を深く見つめる課程があります。

イグナチオ・デ・ロヨラと「霊操」~見神体験を再現する優れた修行法

このような徹底的な懺悔反省が功を奏する場合もあります。

横柄で傲慢、鼻持ちならず、見栄っ張りで欲が深い。このようなイケイケの性格の人の場合は、自己否定感を強める「懺悔反省」「悔い改め」は、むしろ中庸に戻す作用も出てくると思います。

けれども、やさしい性格の人、元々感受性のある方には、暴力や、自己否定感を強めてしまう懺悔反省の仕方は、かえって逆効果です。

暴力で感じる力を高めるやり方には限界がある

昔に多かった体罰や心をへし折るタイプの厳しい指導法は、教育や修行の世界にもありました。影響も与えていました。

昭和の時代には、叩く、怒鳴る、追い込む、しごくというスパルタ式の指導が、今よりずっと当たり前のように行われていましたからね。

私自身も、そういう時代を過ごしてきています。

しかし、今の時代では、暴力や暴言で人を変えようとするやり方は、もう通用しません。

通用しないだけでなく、社会問題になりますね。

暴力は根本的に危険になってきています。

たしかに、強い刺激によって一時的に目が覚めることがあるかもしれません。

物事の善し悪しに気づいたり、親への感謝が出てきたり、そういう変化が起きる場合もあるでしょう。

けれども、暴力はやはり最後の最後の手段というより、現代では基本的に避けるべき行為ですね。

感受性を高めるために、人を傷つける。

これは、避けたほうがよいと思います。

感受性を高めるために自己否定感を強める必要はない

私は感受性を育むにあなって、暴力的な文脈や、過度な自己否定の文脈で育てようとは思っていません。

自分を責める。

自分を否定する。

罪悪感を強める。

ネガティブな心を経由して感受性を高めようとするやり方は、昔からありますが、私はその路線は採用していないんですね。

そうではなくて、もっと優しい文脈、柔らかい文脈、ハートフルな文脈の中で、感じる力を育てていきたいと思っています。また可能であることに気づいています。

慈悲・やさしさの中でも感受性は育つ

温かさや柔らかさの大切さを感じる。

人の親切に触れて、心が温まる。

誰かの思いやりに触れて、ジーンとする。

「ありがたいな」と感じる。

こうした体験の中でも、感じる力は十分に育まれていきます。

むしろ、私はこの方向が大切だと思っています。

誰かに親切にされたとき、心がふっと温まる。

そのときに、

「ああ、ありがたいな」

と感じる。

これなんですよ。

そこでジーンとくる。

感動する。

そういう日常の中の小さな感謝の体験を、ちゃんと感じられるようになること

これ自体が、感受性の高まりなんです。

ブッダのことば「慈しみ」がわかったとき|自己観察と祈りで慈悲が育つまで

当たり前の中に感謝を感じることが感受性を高める

このことは、当たり前のように聞こえるかもしれません。

けれども、日常生活の中で、当たり前だと思っていることに感謝の気持ちを持つ。

ありがたいと感じる。

素晴らしいなと感じる。

こうした感謝、感動、高揚する思いが、感受力を育んでいくんですね。しかも他の人達とも分かち合う豊かな心も育んでいきます!

私のやり方は、この路線なんですね。

暴力で目を覚まさせるのではない。

罪悪感で追い込むのでもない。

やさしさ、温かさ、思いやり、柔らかさ。

その中で、感じる力を育てていく。

これが、私の実践の方向です。

感受性があると慚愧の心が育つ

仏教には、慚愧(ざんき)という言葉があります。

慚愧とは、物事の善し悪しを感じる心ですね。

この慚愧の感覚は、感受性の高さと非常に関係があります。

てか、感受性が弱いと、慚愧の心は育ちにくい、育たないんですね。

で、物事の善し悪しを感じる感性がなければ、瞑想実践で大事な「霊性」も育ちにくなる

霊性は、真我、宇宙意識といった高次意識への鍵(カギ)です

ですので瞑想の実践実習では、感受性は欠かすことができないんですね。

で、感受性のことを瞑想の文脈では、「気づき」「自覚力」とも言っているんですね。

瞑想実践においては、非常に大切な感性です。

感受性を高める「ゆるっと路線」は体験と体感から生まれた

このようにお話ししますと、「瞑想の実践プレゼンスを、結構深く考えて作っているんですね」と思う方もいるかもしれません。

でも、そうではないんですね^^;

頭で考えてこのやり方を作り上げたわけではないんですね。

自分の体験や体感から、自然とこういう構成になっていったんですね。

優しさ。

思いやり。

温かさ。

ハートフルさ。

こうしたものは、本当に大切です。

このエッセンスが弱いと、あるいは、その大切さが実感としてわからないと、ゆるっと路線、ほのぼの路線は、なかなか功を奏しにくいところがあるかもしれません。

でも、ここがわかってくると、実践の中身は変わってきます。

まとめ|やさしさの中で感受性を育てる瞑想実践

厳しさで押し込むのではなく、柔らかさの中で深まっていく。

緊張で縛るのではなく、温かさの中で感じる力が育っていく。

そういう実践のあり方が、今の時代には合っているのではないかと思っています。

ゆるっと、ゆったり、やさしく、やわらかく、ニッコリ、ほほえみ、笑い、ユーモア。

こうした文脈で他者への思いやりが育まれ、「気配り」もできるようになり、丁寧な対応へとつながっていく。

これは徳育の文脈でもありますが、この文脈の背景に「感受性」がある。

そう、善行、徳を積むためには、感受性が欠かせません。

だからこそ、古代のインドでは、カルマヨーガという真実にたどりつくアプローチもあったんですね。

感受性は、瞑想実践において大切な感性になります。

毎月の瞑想会で瞑想のやり方などをお教えしています。初心者から参加できます。ご興味があればお問い合わせください。

 

浜松の瞑想「ゆるっと瞑想会」

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