瞑想はなぜ体験しないとわからないのか|言葉を超えて深まる実践とは

瞑想や天啓気療は体験しないとわかりにくい

この前の日曜日(2022.3.6)の公開天啓気療では、遠方から参加してくださった方がいらっしゃいましたので、駅に送る道すがら、喫茶店に立ち寄りましてね。

で、あれやこれやとの話しになりましたが、やはり「天啓気療」はすごいですね。

しかし、なかなか理解されにくいんですね。どうしても見た目は、一般的なヒーリングと同じです。で、感受力がありませんと、一般的なヒーリングとの違いがわかりにくい。

で、これが一つのハードルになっています。

天啓気療を受けて、何か感じたり、変化が出てきたり、あるいは受け続けることで感受力が高まり、それで他のヒーリングとの違いがわかるなど、何らかの体験・体感がありませんと、どうしても天啓気療の価値を感じられないと思います。

天啓気療を感じるもそうですが、いろいろと体験を重ねたり、深くなってきますと、理解されがたいことが増えてくるなあという話しにもなりましてね。

感受力がないと違いがわかりにくい

これは天啓気療に限らず、瞑想やヒーリング全般に言えることかもしれません。

見た目だけを見れば、瞑想はどれも静かに座っている、ヒーリングは手をかざしているだけに見える。

けれども、実際には、そこで起きていることや、受け取っているものは、見た目と違って内部の動きがあります。

その違いは、知識のようにあ説明されてもすぐにはわかりにくいんですね。ある程度、自分の感受力が動いてこないと、違いが認識しにくいところがあります。

ですので、最初の段階では「見た目は同じに見える」「説明を聞いてもよくわからない」ということが起きやすいと思います。

言葉通りでは進まない段階がある

確かに、瞑想一つにしても、「言葉通り、説明通りに行ってもうまくゆかない」段階が出てきます。

で、こうした言葉通りでない領域になりますと、実際に行って体験を重ねていくしかわからなくなってきます

さらに、この先に生じてくる諸々になりますと、わけのわからない世界に思われることも。

なぜ説明だけでは届かないのか

瞑想というのは、知識を覚えることとまったく異なります。

瞑想のやり方を知的に理解し、知識として知ることはもちろん大事です。

けれどもが、やり方を知っただけでは、瞑想の効果が出てきたり、変化が起きるわけではないんですね。

気づき、感受、心の余裕、リラックス、ゆるみといった瞑想特有の体感は、頭で理解することは困難です。

実際に瞑想を実習していく中で、次第にわかってくるようになります。

同じ説明を聞いていても、実践前と実践後では、言葉への理解、受け止める意味は違ってくるようにもなります。

ある程度進んでくると「ああ、こういうことか」と、実感をともなった理解になってきます。

言葉を超える段階がある

気づきの瞑想からスタートして、言葉・感情から自然な距離が生じるようになるまでが、一つのステップになります。

で、その先からは、言葉を超えた世界になります。いわゆる高次的な発想や見解が生じることも。で、それぞれが体験を深めていくようになります。

で、さらに進むと身体的な変化が生じてくることもあって、もっと進むと・・・といった歩みになっていきます。

ちなみに、これらは悟りではありませんし、悟りにも連なりませんが、心がラクになるなどの効果が出てきて有益だったりします。

で、こうしたことも大事なんですね。

言葉を超えた領域というと、スピリチュアルに多い神秘体験のように思われることがありますが、そういう話ではないんですね。

むしろ実際的です。現実的です。

今まで言葉にべったり張りついていた認識が変わり、認知に余裕が出てきて、思考や感情との同一化が減っていく。

ものごとを前よりも広く受け取れるようになる。

こうした変化こそ、言葉を超えていく現れになります。

ただ、このあたりは説明は、体験や実体験がありませんと、言葉だけでは伝わりにくいんですね。実際に自分で体験してはじめて、わかるようになります。

気づきの瞑想は地味だが非常に奥が深い

気づきの瞑想は、見た目とは違って非常に奥が深いんですが、見た目が瞑想らしくないため、その価値が理解されにくいと感じています。

しかもキラキラした言葉や、心を刺激するキャッチーなフレーズはありません。むしろ、そうした飾られた言葉や観念は、綺語(きご)として退けられます。

お伝えしている瞑想は、地味で味気が無いように映ってしまいます。しかし興味を持ってくださる方がいるのはうれしいですね。

地味に見える実践ほど深いことがある

実践を続けていると少しずつわかってくることですが、本当に役に立つものほど、派手ではないことが多かったりします。

瞑想もそうです。見た目にはただ座って何かやっているだけに映ります。耳ざわりの良いキャッチコピーはありません。すぐに何か劇的なことが起きることもありません。

地味。

けれども、実際には、思考や感情との間に距離が生じたり、反応がやわらいだり、身体感覚が繊細になったり、以前よりも自然にあるがままでいられるようになったりします。

この変化は、派手ではないのですが、本質的な変化になります。地味だからこそ、ウソや妄想、想像、綺語的なそれらしい説明でごまかしたり飾ることは難しいところがあります。

それ故に、巷に多いスピリチュアルとは一線を画します。キラキラした表現や刺激的な言葉で喧伝するものとは異なります。

地味で、評価しづらいものの中に、本当に深いものがあったりします。この傾向はありますね。

気づきの瞑想は体験を通して深まっていく

気づきの瞑想についても、本を読んだから「わかった」、理解したから「できた」という性質ではないんですね。

知的な理解はスタートに過ぎません。

実際にやってみる。続けていく。で、うまくいかない時もある。何も起きていないように感じるときもある。

それでも続けていると、次第に認知が変わり、モノの見え方・受け止め方が変わってきたことに気づきます。

言葉に引っぱられにくくなる。感情に巻き込まれにくくなる。身体の感覚が前よりもわかる。力みが抜ける。ほっとする。一見すると地味なんですが、大きな内部の変化です。

こうしたことは、やはり体験を通してしかわかりません。

気づきの瞑想は、地味に見えても非常に奥が深い瞑想です。

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雑談の中で見えてくる実践のリアル

こうした雑談をしながら、瞑想の奥深い話しを交えましたが、雑談は大事ですね。雑談にこそ味わいがあり、妙味があると思います。

と、そんな感じで、毎月、行っていますが、来月は4/9(土)か4/10(日)を予定しています。

あと近々、誰もが参加できるZOOMイベントを始めようかと思っています。近々、このブログでも告知いたします^^

雑談にこそにじみ出るものがある

ちなみに、雑談というと、どうでもいい会話のように聞こえるかもしれませんが、実はそうでもないんですよね。

かしこまって説明しようとすると、かえって形式的になったり、うまく伝わらない場合もあります。

けれども、雑談は、そのとき感じていることや、実践の中で起きていることが、自然な形で出てくることがままあります。

教える・教わるという構図だけではなく、一緒に味わうような空気ですね。それが雑談ですし、そういった中で、ユーモラスや笑いとともに、ゆるき話しをすることに実はこれまた深い意義があると感じています。

場に身を置くことにも意味がある

瞑想やヒーリングは、一人で本を読んだり、説明をただ聞くだけではわかりにくい、いえ本質的なことは伝わらない場合もあります。

実際に現場に身を置き、実践し、話をし、体験を重ねていく。その中で、わかってくることは多いと思います。

瞑想会や公開天啓気療の場では、実践そのものも大事ですが、終わったあとの雑談もまた、味わいがありますね。

興味を持ってくださる方がいらっしゃるのはやはりうれしいですね。

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