ジャイナ教の瞑想法とは
ジャイナ教の瞑想法についてまとめてみます。
情報が少ないのですが、かろうじて「ジャイナ教の瞑想法―6つの知覚瞑想法の理論と実践」に載っている、白衣派の「プレークシャー・ディヤーナ」がありますので、このメソッドをご紹介いたします。
※ジャナイ教では、海外渡航などの旅行が戒律で禁止されているため、海外に知られることが大変少ないといいます。
この本に載っている「プレークシャー・ディヤーナ」は、近代になって再構築された新しい瞑想法といいます。果たして原始ジャイナ教の時代に実践していたかどうかは不明です。
「プレークシャー・ディヤーナ」だけを取り上げて、仏教の瞑想法と比較するのは決して正しいとは言えないと思いますが、一応、比較してみます。
比較記事として見たほうがわかりやすい
この記事では、ジャイナ教全体を論じるというより、「プレークシャー・ディヤーナ」というメソッドを通して、仏教の瞑想とどこが似ていて、どこが違うのかを考察したいと思います。
仏教とジャイナ教はとてもよく似ているといいます。そもそもブッダは、ジャイナ教で使っていた言葉を拝借して、ご自身の解脱のダンマを説明していたくらいです(中村元先生の研究本「思想の自由とジャイナ教」)
術語は似ていても、瞑想の仕方には決定的な違いもあったようです。それがこの記事で取り上げる「プレークシャー・ディヤーナ」です。
ただし、原始仏典にも「四神足」というチャクラ系と思しき修行法も伝承されています。けれども、詳細は不明。推測になりますが、どこか「プレークシャー・ディヤーナ」に通じた実践だったのかもしれませんね。
そのような前提もありますが、この記事では「プレークシャー・ディヤーナ」と仏教の瞑想を対比してみたいと思います。
なお、瞑想法全体の分類や違いについては、こちらの記事でも整理しています。
ジャイナ教とは?
ちなみにジャイナ教とは、ブッダと同じ頃の時代に登場した「マハー・ヴィーラ(ニガンダ・ナータプッタ)」が創設した宗教ですね。不殺生(アヒンサー)を非常に重視し、欲望や執着を減らすことで魂を清め、それによって輪廻やカルマから解脱できると説く宗教です。
仏教と同じく修行と瞑想を重視し、共に「解脱」をテーマにしている宗教ですが、仏教が「煩悩の浄化」を説くのに対して、ジャイナ教は「カルマの浄化」を説く点に決定的な違いがあります。
ジャイナ教では、魂に「カルマン」という業的な物質が付着しているとし、カルマンがあるため輪廻を続けているといいます。で、苦行によってカルマンを落とすことで、完全なる解脱(輪廻からの解放)ができると説いています。
苦行によって業を消すという考え方は、昔の日本の民間宗教や現代の新興宗教にも時折みられます。
プレークシャー・ディヤーナは「身体の知覚」を重視する瞑想
「プレークシャー・ディヤーナ」は、別名「身体の知覚」といわれる瞑想です。心を内側に向けて、身体で起きているあらゆることを気付いていく瞑想といいます。
しかも、知覚を「ありのまま」に見て、知覚に気付き、快・不快にとらわれないようしていきます。
「今、この瞬間に生きる」という姿勢もあって、現在起きていることに意識を向けていくといいます。
ここまでの説明を聞けば、仏教で行っている瞑想と同じですね。
「知覚に気付く」「今この瞬間を生きる」とありますので、ジャイナ教も仏教の瞑想も同じではないかと思ってしまいます。
身体感覚や知覚に気づくことの意味については、こちらでも詳しく書いています。
瞑想の極意「気づき」とは何か|感じる力・感受力の本質「識別」を解説
プレークシャー・ディヤーナは仏教瞑想に似ている
たしかに、「知覚に気付く」「今この瞬間を生きる」というジャイナ教の瞑想は、かなり仏教的です。
ブッダは、ジャイナ教で使っている言葉を拝借していた事実がありますので、もしかすると仏教が(ブッダが)、ジャイナ教の瞑想を取り入れた?とも思ってしまいます。
身体感覚に気付くこと、今起きていることを「ありのまま」に知覚すること、快・不快に引きずられないこと。こうした点は、ヴィパッサナーや気づきの瞑想とも重なります。
ジャイナ教のプレークシャー・ディヤーナは、仏教の瞑想と似ているように思います。
身体の知覚はボディスキャンに似ている
中でも「身体の知覚」に気付くというのは、ゴエンカ氏が提唱するヴィパッサナ瞑想法(ボディスキャン)とほぼ同じではないでしょうか。
というのも、「プレークシャー・ディヤーナ」の中には、全身の感覚を意識の眼で感じ取っていくやり方があり、これはゴエンカ氏の10日間コースとほぼ同じメソッドと思われるからです。
禅定も似ている
またジャナイ教でも禅定(サマディ)を作ります。梵我一如を目指します。
仏教も「定(禅定)」を作りますが、定の中身そのものは、梵我一如的でもあります。
この点は、ジャイナ教と同じですね。
ですので全体を通して踏まえると、仏教も途中までは「プレークシャー・ディヤーナ」と同じといってもいいかもしれません。
ジャイナ教の瞑想と仏教瞑想との違い
ジャイナ教の瞑想(プレークシャー・ディヤーナ)では、心よりも身体レベルにおける知覚をとぎすませることにウェイトを置いています。
またその鋭敏になった身体感覚で、カルマ(物質化しているカルマン)を取り除くとしています。
ジャイナ教は「身体を重視」「チャクラ開発」「宇宙との一体化」「カルマの根絶」が特徴ですね。
一方、仏教は「心を重視」「チャクラ開発は意図的には行わない」「ただある・涅槃」「煩悩の根絶」が特徴です。
こうした点は仏教と異なります。
途中までは似ていても最後は同じではない
またジャナイ教と仏教との決定的な違いは、仏教の最終的な瞑想は「坐禅」にみられるような「なにもしない」となることですね。
この「なにもしない」は、一切のDoを排して、「ただある(只管打坐)」となっていきます。
方やジャイナ教は「梵我一如(宇宙との一体化)」が最終的な瞑想になります。
これが仏教の特異な点であり、ブッダが発見したダンマになります。
こうした「ただある(只管打坐)」は、ジャイナ教にはなさそうです。
仏教における「何もしない」「ただある」という方向については、こちらでも触れています。
「手放す」「何もしない」の本当の意味|瞑想で大切な注意点と智慧
最終ゴールの理解が異なる
また先述の通りで、
・仏教・・・煩悩の根絶
・ジャイナ教・・・カルマの根絶
を目指し、これらが実現することを「解脱」といっています。
ジャイナ教と仏教とは最終段階で相違なところが浮き彫りになります。
どこが仏教と違うのか
このようにジャナイ教と仏教とを対比すると違いが浮き上がってきます。
こうした相違点はかなり重要で、プレークシャー・ディヤーナは、やはり仏教の瞑想と同一視できない理由にもなります。
整理しますと、ジャナイ教(プレークシャー・ディヤーナ)では、まず、宇宙との一体化をゴールにしている点が違います。「プレークシャー・ディヤーナ」では、宇宙との一体化(梵我一如)を目指し、これがゴールのようです。全てと一体とする意識ですね。
仏教にも深い禅定や一体感の体験はありますが、それ自体を最終目的としていません(禅定を足がかりにして深い観察・あるがままとして解脱を目指します)。
また、カルマを、身体的な知覚やエネルギー的な方法で除去していく発想も、仏教とは異なります。
さらに、チャクラ開発を含めている点も特徴です。身体感覚を観るという意味では仏教と似ていても、その先でエネルギーやチャクラを積極的に扱うとなると、別方向になります。
このあたりを踏まえると、プレークシャー・ディヤーナは、たしかに知覚瞑想ではあるけれど、仏教の観察瞑想や坐禅とそのまま同じではないこともわかります。
ジャイナ教と仏教を対比すると、途中までは似ているのですが、最終段階になると明らかな違いが浮き上がります。
最終ゴールにおける違いが、ジャイナ教と仏教のそれぞれの瞑想に反映されているということじゃないかと思います。
プレークシャー・ディヤーナのやり方
では近代に再構築された白衣派の「プレークシャー・ディヤーナ」をご紹介いたします。
瞑想は6段階になっています。
1.カーヤ・ウトゥサルガ
リラックスする瞑想。
2.アンタル・ヤートラ
意識を脊髄にそって上下させる瞑想。スシュームナ管に沿って気を上下させて気の巡りをよくするといいます。
3.シュヴァーサ・プレークシャー
呼吸に意識を向け、お腹の動きを知覚していく瞑想。鼻孔に出入りする空気の流れを知覚します。これは仏教のアーナパーナ瞑想に似ていますが、感覚を観ていくため四界分別観に近いのではないでしょうか。
また鼻の付け根を頂点として、上唇を底辺とした三角形の範囲で生起する感覚に気付きながら、呼吸の出入りに意識を集中します(これはゴエンカ氏が提唱するアナパナと同じです)。
4.シャリーラ・プレークシャー
身体と身体内部の知覚を観ていく瞑想。頭のてっぺんから足のつま先までの全細胞の知覚を観ていきます(これもゴエンカ氏の方法と似ています)。
また体内の「光」お観て、「気」を全身(遺伝子レベルまで)に巡らし体全体が黄金色に染まり、その光が四方八方に広がり、宇宙全体との調和をイメージしていきます。
5.チャイタニア・ケーンドラ・プレークシャー
チャクラ開発の瞑想。チャクラに意識を集中して、生起している振動や感覚を知覚するといいます。
6.レーシュヤー・ディカーナ
チャクラを利用して、善の魂のレーシュヤーという光の出ることを瞑想。
ジャナイ教では、霊魂に2種類と6種類の色があるとします。
・悪のレーシュヤー・・・暗黒、青、灰
・善のレーシュヤー・・・赤、黄、白
いわゆる霊魂が発生するオーラの色なのですが、チャクラを利用して霊魂のオーラをよくする瞑想のようです。
6段階を通して見えること
こうして並べてみると、前半はかなり入りやすいです。リラックスし、呼吸に気づき、身体感覚を細かく観ていく流れは、実践としても理解しやすいですね。
ただ、後半になるほど、チャクラ、光、オーラ、宇宙との調和といった要素が強くなってきます。ここが、仏教の瞑想と大きく分かれていくところだと思います。
つまり、プレークシャー・ディヤーナは、身体感覚への気づきから入りつつ、最終的にはエネルギー的・宇宙的一体感の方向へ展開していく瞑想法だと見てよさそうです。
実践者の視点から見た長所と注意点
以上の6段階の瞑想が、白衣派の「プレークシャー・ディヤーナ」になります。「知覚に気付く」「今この瞬間を生きる」というのは、仏教にも共通します。
また、ゴエンカ氏の瞑想法と大変よく似ているメソッドが含まれています。
しかし、チャクラを開発して、このパワーで魂に付着しているカルマを取り除くとしている点は、仏教にはありません。教理的にも存在していません。
ですが、こうした教理的な概念がベースになって、ジャイナ教としての瞑想が構築されているのだと思います。
仏教の場合は、ヴィパッサナ瞑想で智慧(明知)を得て、厭離が生じ、解脱するといいます。とはいっても「坐禅」に集約されていますね。
ちなみにお釈迦さまは、ジャイナ教の瞑想法では悟りは得られないといわれています。対象を設ける瞑想では悟ることはできないからですね。
プレークシャー・ディヤーナの長所
プレークシャー・ディヤーナの長所は、身体感覚への気づきをかなり丁寧に扱っているところだと思います。リラックス、呼吸、身体知覚という流れは、瞑想の導入としてもわかりやすいです。
また、身体を通して内側を感じていくことは、心を静めたり、感受を高めたりする助けにもなります。
ただし、対象を設けて、対象を操作し、チャクラや光やオーラの方向へ進めていく瞑想は、仏教の最終的な方向とは違ってきます。
ブッダはジャナイ教の瞑想を取り入れた?
とはいっても、実際的な見地からいいますと、プレークシャー・ディヤーナは多いに参考になります。
しかも仏原始教に伝わっている「四神足」を彷彿とさせます。もしかすると、プレークシャー・ディヤーナは、四神足に近いのかもしれません。
いえいえ、そもそもジャナイ教の瞑想(プレークシャー・ディヤーナ)そのものが、実は仏教が取り入れたものの、最後の段階でブッダオリジナルの実践を取り入れた可能性もあります。
ブッダは、ご自身の解脱を、ジャナイ教の言葉を使って説明していたくらいです。瞑想や実践も、ジャイナ教から取り入れていたとしても不思議ではありません。
プレークシャー・ディヤーナから学べること
私自身の観点からいいますと、役に立つものは取り入れたほうがよいと思っています。
ですので、プレークシャー・ディヤーナも大いに参考になりますし、そもそも仏教の瞑想にも似ています。
役に立つという実利の面を重視していますので、プレークシャー・ディヤーナも参考にしたいと思っています。
「あるがまま」「いまここ」「つくりごとではない気づき」といった瞑想に、プレークシャー・ディヤーナを取り入れることも可能です。
ただし最終段階においては違ってくるということですね。途中プロセスまでは大いに参考になります。
最終的な実践の方向としては、こちらの記事も参考になります。

