目次 非表示
- 輪廻転生(生まれ変わり)とカルマとは何か?
- 生まれ変わりとカルマは一筋縄ではいかない
- 生まれ変わりにはいくつかのケースがある
- 類魂という共有意識が天人の世界
- 類魂のカルマを背負って生まれてくる場合
- 仏教にも通じる天人からの再生
- 動物的な意識から人間へ生まれてくるケース
- 生まれ変わり・輪廻転生のケースを整理
- 原始仏典に伝わる生まれ変わりは業報による再生のケース
- カルマと業報を扱う際に注意したいこと
- 遺伝も一種のカルマのように見える
- 無我|自分とは何か?という問いへ
- カルマを解消するための実践
- 両親とのカルマについて
- 人生がうまくいくかどうかを気にしすぎない
- 霊性を高める生き方へ|心を軽くし意識を高めていく
- まとめ|カルマよりも実践を大切にする
輪廻転生(生まれ変わり)とカルマとは何か?
輪廻転生(生まれ変わり)とは、生命が一度きりで終わるのではなく、死後もまた別の形で生まれ変わりを繰り返すという考え方ですよね。
この記事をお読みの方は、その辺りのことは充分、ご理解されていると思います^^;
輪廻転生と生まれ変わり
仏教では「輪廻(りんね)」といっていますね。重たい言葉ですが。で、輪廻とは、迷いの世界に生まれては死に、死んではまた生まれる流れとして語られています。
で、一般には「前世」「来世」「現世」といった三世や「生まれ変わり」という言葉で理解されています。
カルマとは?仏教でいう業・業報の意味
一方、カルマとは、過去の行為、心の傾向、認知のあり方が、未来の経験や人生の流れに影響していくという考え方ですね。
日本ではよく、
「前世で悪いことをしたから、今世で苦労している」
「善いことをすれば、来世で良い報いを受ける」
というように理解されます。
もちろん、そのような見方も一つのカルマ理解です。
カルマと因果応報は単純なバケツリレーとは限らない
ところが、輪廻転生とカルマは、そこまで単純なものではないことも浮かび上がってくるんですね。
前世で行ったことが、そのまま今世に返ってくる。いわば、バケツリレーのように業が引き継がれていく。
これは仏教に伝わる輪廻転生・カルマの業報理論で、日本人には広く知られています。このような見方はわかりやすいところもあります。
しかし、実際の生まれ変わりや人生の複雑さを見ると、それだけでは説明しきれない部分があることがわかってきます。
この記事では、生まれ変わり・輪廻転生とカルマの関係を、原始仏典、スピリチュアリズム、類魂、遺伝、そして日々の実践という視点から整理してみたいと思います。
生まれ変わりとカルマは一筋縄ではいかない
輪廻転生というと、多くの方は、
前世がある。
今世がある。
そして来世がある。
というように、一本の線のように考えると思います。
自分が前世で行ったことが、次の人生に報いとして返ってくる。いわば、バケツリレーのように業が引き継がれていくという見方です。
これは、非常にわかりやすい輪廻転生とカルマの理解ですね。仏典に伝わる輪廻転生のとらえ方ですね。
私も以前は、そのように考えていました。
スピリチュアリズムにおける生まれ変わりは仏教とは異なる
ただ、スピリチュアリズムの情報を見ていくと、生まれ変わり(輪廻転生)やカルマというものは、どうもそれだけでは説明しきれないのではないかと思えてくるんですね。
どうも生まれ変わりにはいくつかのケースがあるように思えてきます。
原始仏典に伝承されている輪廻転生などのスピリチュアルな情報は、役に立つところもありますが、ある意味ではざっくりしています。
原始仏典をはじめとした仏典における輪廻転生は、生まれ変わりの全体像というよりも、その一部分を取り上げて、そこを深く掘り下げて伝承している可能性があるのではないか。
今は、そのように感じています。
生まれ変わりにはいくつかのケースがある
スピリチュアリズムでは、生まれ変わり(輪廻転生)にはいくつかのケースがあるとされています。
原始仏典に伝承されている「バケツリレー式」の生まれ変わりには3つあります。まずは、その3つの輪廻転生のパターンについてご紹介します。
①すぐに生まれ変わるケース
まず一つは、原始仏典に伝承されているような、いわゆるバケツリレー式の生まれ変わりです。
亡くなった後に、いったん中有、冥府、常夏の国と呼ばれるような中間的な世界へ行き、そこから再び人間に生まれ変わってくる。そういうケースです。
なかには、その中間的な世界にほとんど滞在せず、すぐに人間へ再生してしまう場合もあるようです。
たとえば、交通事故や災害、戦争などで突然亡くなった方のケースです。前世の記憶を鮮明に語る子どもの話がありますが、そうしたケースには、突発的な死が関係している場合が多いように見えます。
オートバイ事故で亡くなった記憶を語る子どもや、戦争中に特攻隊として亡くなった記憶を語る子どもなどです。
こうした場合、向こうの世界に長く滞在しないまま、直線的に生まれ変わってきている。そのため、人間だった時代の記憶を比較的鮮明に残しているのかもしれません。
②中有・冥府・常夏の国にしばらく滞在するケース
もう一つは、中有、冥府、常夏の国と呼ばれるような世界にしばらく滞在してから、再び人間に生まれ変わってくるケースです。
この場合は、前世の記憶をあまり覚えていないことが多いようです。
しばらく向こうの世界で過ごすうちに、前世の記憶が薄れていくのかもしれません。あるいは、生まれ変わる時に、それを覚えていないように調整されるのかもしれません。
しばらく滞在して、自分が行った業(カルマ)を引き継いで生まれ変わるようです。バケツリレー式の転生ですね。
③苦しい世界を経て生まれ変わるケース
また、亡くなった後に中有や冥府のような世界へ行き、そこからさらに苦しい境界へ落ちていくケースもあるようです。
仏教的にいえば、餓鬼的、地獄的なメンタリティーになって、そこで長く悶え苦しむ。
そして、そこでのエネルギーが尽きる、あるいは「このままではいけない」と気づくことで、再び中有や冥府、常夏の国のような場所へ戻り、そこから人間に生まれ変わっていく。
この場合もバケツリレー式の生まれ変わり。つまり、自分が行った業(カルマ)が引き継がれていくという転生です。
そういう流れもあるようです。
類魂という共有意識が天人の世界
天人へと進む話しは興味深いものがあります。
人は亡くなった後、中有や冥府、常夏の国を超えて、善い境界、いわゆる天人の世界へ行くケースがあるようです。
で、天人になると、意識は、お互いで共有する「類魂(るいこん)」となるようです。
類魂とは、自分と似たような魂、似たような生命体のグループです。
天人の世界では、自分一人だけが独立して存在しているというよりも、似た性質を持つ魂たちが一つのグループを形成し、お互いの記憶や体験を共有しているといいます。
で、類魂の規模は、天人の世界が高次元化するにしたがって規模が大きくなるといいます。
小さな類魂グループでは数人程度。もう少し進んだ境界では、数十人、百人、数百人。さらに大きなグループになると数千人規模になるともいわれています。
ですのでもっとも高い光明界とか、仏教でいう自在天・他化自在天といった天人の世界では、類魂の規模は数千人クラスの相当に大きな意識であろうと推察できます。
他人の記憶が自分の記憶に感じる
そして、その類魂の中では、他の魂の体験や記憶も、まるで自分の体験や記憶であるかのように感じられるといいます。
自分の体験や記憶なのか、他人の体験や記憶なのかがわからなくなってしまうと。その境目が無くなってしまうようです。
これは、華厳経でいう「一即多、多即一」に近い感覚です。
一人が全体であり、全体が一人である。自分だけが自分なのではなく、自分の中に多くの存在の経験が含まれている。そういう世界観、それが天人の世界、「天界」です。
日本の神道でも類魂・根源意識を説いている
実は、類魂と似たようなことは、日本の神道でもいわれています。吉田神道には、古くから「霊鎮祓(たましずめのはらい)」という祝詞が伝わっています。
この祝詞には、「大元尊神(だいげんそんしん)」という特定の人格神というより、万物の大本、生命の根源、根源神が登場し、人間は、その根源意識を根源とし、さらにその根源意識に立ち戻っていくことを表しています。
また「鎮魂帰神」「神人合一」といった考えもあり、日本には「根源意識に立ち返っていく」というとらえ方があり、これはどこか類魂的です。
日本の神道、霊道では、類魂を超えて、文字通り、宇宙の根源意識に立ち返っていくことを述べています。
類魂のカルマを背負って生まれてくる場合
で、この類魂の考え方が入ってくると、カルマの見方もかなり変わってきます。
私たちは普通、カルマというと、自分が前世で行ったことの結果が、今世の人生に現れていると考えます。
しかし類魂の考え方では、自分だけのカルマではなく、類魂グループ全体の未解決な問題や課題を背負って、人間に生まれてくる場合があるようなのです。
天人の生まれ変わりなのに苦労する
たとえば、天人の世界にいるある魂が、類魂グループの業(カルマ)を解消するために、人間へ生まれ変わる。
その時、自分個人の過去だけではなく、グループのメンバーたちの未解決な部分(業:カルマ)を、ある意味で背負って生まれてくる。
すると、前世では天人的な境界にいたとしても、今世では苦労の多い人生になることもある。
そういうことがあり得るようなのです。
類魂の規模が大きくなればなるほど、背負うものも大きくなるのかもしれません。数人の類魂グループであれば数人分の未解決なものを、百人、数百人のグループであれば、それだけ大きなものを背負ってくる。
もちろん、こういう話がどこまで本当かは、私にも断定できません。
ただ、そういう考え方を知ると、人生の不思議さ、理不尽さ、そして人によってまったく違う人生模様というものが、少し違った角度から見えてくる気がするんですね。
仏教にも通じる天人からの再生
この天人から人間に生まれ変わってくる話を知ると、原始仏典にも似たような話があることに気づきます。
原始仏典には、類魂という考え方そのものは出てきません。
しかし、天人が人間に生まれ変わるという話はあります。
天人の世界は楽で、善い境界ではあります。しかし、人間の世界では、善行や功徳のエネルギーをより強く積むことができる。だから、あえて人間に生まれてくるという話です。
これを類魂の考えと重ねてみると、なかなか興味深いものがあります。
天人が、類魂グループの未解決な業(カルマ)を背負って人間に生まれてくる。そこで苦労しながらも、善行や愛の実践を通して、カルマを軽減していく。
こうした見方は、原始仏典にある天人からの再生の伝承とも、どこか通じるものがあるように感じます。
動物的な意識から人間へ生まれてくるケース
もう一つ、スピリチュアリズムでは、動物的な意識が集合して、人間として生まれ変わってくるケースもあるようです。
つまり、動物の魂や意識が集まり、新しい魂として人間になるという見方です。
この場合、新しい魂であればあるほど、物質的なもの、感覚的なもの、五感を満足させるものに強い関心を持つといわれます。
お金、食べ物、所有物、快楽、感覚的な満足。
もちろん、生活するためにお金が必要であったり、食べ物を楽しんだり、物を大切にしたりすること自体は、まったく悪いことではありません。
問題は、それが度を超えてしまう場合です。
物質的なものや快楽のために、霊性や良心が吹き飛んでしまう。そうなると、まだ魂として若い段階にあるのかもしれない。そういう見方もできるのではないかと思います。
生まれ変わり・輪廻転生のケースを整理
ここで一度、話を整理しておきます。
生まれ変わり(輪廻転生)には、少なくとも次のようなケースが考えられます。
- 亡くなった後、中有・冥府・常夏の国のような中間的な世界へ行き、すぐに人間へ生まれ変わるケース
- 中間的な世界にしばらく滞在してから、人間へ生まれ変わるケース
- 中間的な世界から、さらに苦しい境界へ行き、そこでの経験を経て再び人間へ生まれ変わるケース
- 天人的な世界へ進み、そこで類魂と関わった後、再び人間へ生まれ変わるケース
- 動物的な意識が集合し、新しい魂として人間へ生まれ変わるケース
生まれ変わりは単純な一本線ではないということですね。
原始仏典に伝承される「前世でこうしたから、今世でこうなる」という因果応報だけに収まらない現実もありそうです。
実際の生まれ変わりや輪廻転生はもっと複雑で、いくつもの流れがありそうです。
生まれ変わりのケースの一覧

原始仏典に伝わる生まれ変わりは業報による再生のケース
結局、原始仏典に伝承されている生まれ変わりはバケツリレー式のカルマ理論に基づくものということだと思います。
バケツリレー式の生まれ変わり(輪廻転生)には、少なくとも次の3つのケースが考えられます。
- 亡くなった後、中有・冥府・常夏の国のような中間的な世界へ行き、すぐに人間へ生まれ変わるケース
- 中間的な世界にしばらく滞在してから、人間へ生まれ変わるケース
- 中間的な世界から、さらに苦しい境界へ行き、そこでの経験を経て再び人間へ生まれ変わるケース
これらは、原始仏典をはじめとした仏教で語られる単純な業報(カルマ)の法則による因果応報ですね。「前世でこうしたから、今世でこうなる」といったタイプです。
ですが、これらは、いわば境涯の低い生まれ変わりであることもわかります。
あるいは、善い行為もまあまあしながらも、天界へ進もうとはしないで、再び人間に生まれ変わるケース。
仏典に伝わっている生まれ変わりの法則などは、次元の低い魂の生まれ変わりや、霊性向上の乏しい魂の再生話が極めて多い可能性ががあります。
ブッダ在世時の時代背景と輪廻転生の説き方
そもそもブッダが在世していた2500年前は、覚醒体験をした宗教家ですら倫理道徳など意味がないと否定していたほど霊性が乏しいかった時代です。
2500年前のインドには、霊性も乏しく、道徳観念が損なわれた野獣のような人間が多かったことも浮かび上がってきます。
それ故に、仏典には地獄とか餓鬼、動物に生まれ変わるなどの怖い話しがオンパレードだったのではないかと思います。
実際、スピリチュアリズムにおける生まれ変わりと比較すると、仏教に伝わる輪廻転生は境涯が低い生まれ変わりのケーススタディであるとしか言いようがありません。
恵まれた人間でも霊性に無頓着な理由
現代におけるバケツリレー式の生まれ変わりで人間に再生すると、比較的に恵まれることが多くなりそうです。
中には業が残っていて苦しい境涯になることもあり得ます。
しかし、人間の時代にそれほど悪いことをすることなく、まあまあな人生を過ごすと、霊界の上層へ進むことなく人間に再生することも。
そうした場合、霊性への向上、スピリチュアリティが乏しいまま、低い境涯をグルグルと輪廻転生することがままありそうだということですね。
これが原始仏典に伝わる「長い長い輪廻転生」なのかもしれません。
しかしこのケースで人間に生まれ変わっても、物質にも恵まれ、感覚的な喜び事もわりと多くなり、そこそこ楽しげな人生にもなります。
霊性向上を目指さない有り様
けれども霊的にはイマイチ。死後の世界やスピリチュアリティにも興味がない。せいぜいオカルトの類に興味を持つ。
ですが、多くの人が、これを求めているように思います。成功法則、引き寄せの法則など、現世での成功や栄華を強く求めます。
けれども、実のところこれは底の浅い霊性であり、霊的世界全体からみれば、このようなあり方は望ましいものではないことがわかってきます。ある意味、残念な有り様ともいえます。
いえいえ決して物質性や感覚的な喜びを否定するわけではないんですね。これらも大切です。
ですが、物質性や感覚的な心地よさのみにとどまり、霊性や精神の向上をあまり目指さない有り様は、結局、貧弱な生命に陥り続けるということがわかってくるということです。
人間に再生し続けることよりも、より上位の生命体、つまり天人へと進んだほうが、良いようにも思います。
カルマと業報を扱う際に注意したいこと
ところで、私は基本的に、カルマ(業報)の話はあまり積極的に取り扱わないようにしています。
ちなみにカルマや過去世を否定しているわけではないんですね。そんな乱暴なことは言いません。カルマや業報はあります。
けれどもカルマの話をすると、いくつかの問題が出てくると感じているからなんですね。その問題とは
・暗く重たくなる
・責任転嫁の理由に使われる
というのが多いからなんですね。
カルマの話しは暗く重くなりやすい
カルマ、業報の話しになりますと、暗く重たくなりやすいと感じています。たとえば、
「これは前世のカルマだ」
「自分の人生がうまくいかないのはカルマのせいだ」
「家系の因縁のせいだ」
「霊的存在の影響だ」
という感じですね。このような話しを聞いているだけでも、暗く重たくなっていきます^^;
カルマの法則を責任転嫁に使ってしまう
あと、人生でうまくいかないことや、不遇なこと、思い通りにいかないことに対して、
「これはカルマだから仕方がない」
「前世のせいだからどうしようもない」
「霊的な影響だから自分ではどうにもならない」
このようにやたらとカルマなどの確認できないことに原因を帰すると、自分で認知を改めたり、行動を変えやり、心のあり方を整える実践をおろそかにしやすい、しないというケースが意外と多いんですね。
つまり「責任転嫁」をしてしまう。
体験的に、こういう人を多くみてきました。
カルマの話しは、自助努力を放棄するための口実、理由として使われることが多い。
自己の向上などの実践をしない口実かのように、「カルマが悪いから」という考えで納得し、努力しなくなってしまうケースが少なくないと感じています。
こうしたこともありますので、カルマの話はしたくない、話題に出したくないというのがあります。
カルマの話は問題になりやすい
このように、カルマの話しは何かと問題になりがちです。まとめますと、
- 人生の不幸や苦しみを、前世や霊的なもののせいにしやすい
- 自分で認知や行動を改める努力が弱くなりやすい
- 話の雰囲気が暗く、否定的になりやすい
- 「自分のカルマではない」と考えることで、さらに責任転嫁が起こりやすい
- 実践よりも、原因探しばかりに意識が向きやすい
このようになりがちで、全体的に暗く重く、無責任なトーンになりやすいですね。少なくとも私は、そういう事例を多くみてきました。
ですが繰り返しになりますが、決して「カルマが無い」とか「生まれ変わり・輪廻転生が無い」といった道理に反した乱暴なことを言っているわけではないんですね。
カルマにウェイトを置きすぎると、暗く重くなりやすい、自助努力を回避して責任転嫁してしまうことが多く、瞑想や祈り、日々の実践にも明朗性を欠き、重たい方向へ引っ張られやすいと感じています。
カルマは、扱い方を間違えると危ういところがあるなあと感じています。
ですので瞑想会では、カルマの話題はできるだけしないようにしています。
遺伝も一種のカルマのように見える
さらに現代では、行動遺伝学という分野があります。これも一種のカルマ的な感じもしますね^^;
才能、能力、性格、リテラシー、金融リテラシー、情報リテラシー、運の良さのように見えるものまで、かなりの部分が遺伝の影響を受けているといわれています。
そうなると、人間とは一体何なのか、という根本的な問いが出てきます。
この身体も、自分で作ったものではありません。両親がいて、祖父母がいて、先祖がいて、その遺伝的な流れの中で、この身体が作られています。
才能も、性格も、好みも、反応の傾向も、かなりの部分は自分で選んだものではない。
そう考えると、遺伝もまた、一種のカルマのように見えてきます。
自分が作ったわけではないものを、自分のものとして背負って生きている。
これは類魂のカルマにも似ています。
類魂の中で、自分が直接作ったわけではない未解決なものを背負って生まれてくる。遺伝的にも、自分が作ったわけではない性質や条件を背負って生まれてくる。
そうなると、ますます「自分とは何か」という話になってくるわけです。
無我|自分とは何か?という問いへ
原始仏典には、ブッダが「これは本当に自分なのか」と問う教えがあります。
たとえば、身体は自分なのか。感覚は自分なのか。心は自分なのか。認識は自分なのか。
また、車のたとえで、車輪が車なのか、軸が車なのか、荷台が車なのかと問いながら、「車」と呼ばれているものは、さまざまな部品が集まって仮にそう呼ばれているだけだと説く話があります。
人間も同じです。
肉体、感覚、記憶、性格、遺伝、家系、過去世、類魂、カルマ。
そうしたさまざまなものが寄せ集まって、「自分」と感じられている。
しかし、それを一つ一つ見ていくと、「これこそが絶対の自分だ」と言えるものは見つからない。
大いなる意識から無我へ
この問いを突き詰めていくと、より大きな意識へ向かうようになります。
それが、類魂、大霊、グレートスピリット、ウパニシャッドでいうアートマンやブラフマンです。
このような意識を「無我」ととらえる向きもありますが、ブッダが説いた無我は、梵我一如、宇宙の根源意識としての無我とは異なります。
ブッダは宇宙意識的な無我を超えて、正真正銘の「無我」を発見しています。
本当の無我は、固定的な自分などない。
そういう深い着地点へ向かっていくわけですね。
カルマを解消するための実践
カルマを巡る話しは、以上の通りですが、最後に、では、カルマや、いわゆる家系的な影響、過去世的な影響を解消するためにはどうすればいいのでしょうか?
まず、そもそもカルマそのものを、あまり気にしない方がよいと思っています。
同様に、家系からの影響とか、将来、地球が崩壊するとか、そういう否定的な気持ちや不安をかき立てるものから距離を置く、離れるということです。
それよりも、今、自分ができること、日々の実践を大切にすることですね。それは、
瞑想をする。
祈りをする。
認知を良くする。
心を軽くする。
人に対して良いアクションををする。
施し、サービス精神、礼節、マナー、思いやりを大切にする。
こうしたことを長期にわたって実践していくことが、結局はカルマの軽減につながっていくんですね。
過去世のカルマを解消するには、自分のできるところで、人に対して何か良いアクションを取ることが大切ですね。
人間に対してだけでなく、動物に対してでもよいと思います。
優しさ、施し、思いやり、礼節、マナー。
こういうものを、日常の中で少しずつ実践していく。
それが、前世からの業やカルマを軽くしていくと思います。
両親とのカルマについて
ところで、両親に対する憎しみのようなものがある場合、それをそのまま持ち続けるのは、やはり良くないと思います。
もちろん、無理に仲良くしなければいけない、ということではないんですね。
事情は人それぞれですし、距離を取った方がよい場合もあります。
ただ、心の中で強い憎しみを持ち続けるのはよくないなあということなんですね。そもそも自分自身が苦しくなってしまいます。心に重たく暗い影を落とします。
両親との関係は、思っている以上に、自分のアイディンティと深く結びついています。険悪な関係よりも、違和感のない関係であったほうが断然いいんですね。
ですから、仲良くまではいかなくても、せめて「気にならない程度」には軽くしていく。まあまあの関係性、あるいは心の中で過剰に引っかからない状態にしていく。
実は、両親との関係性は、カルマと非常に深くリンクしています。
そこで天啓気療やSさんのセッションを併用して、両親との関係性を問題がない程度にしていくのがいいんですね。
人生がうまくいくかどうかを気にしすぎない
結局のところ、人生の幸不幸には、いろいろな要素が混ざっているんですね。
遺伝的なもの。
家系的なもの。
自分が過去に作ったカルマ。
類魂的な影響。
今世での環境。
出会い。
時代。
運。運勢。インド占星術が算出するダシャー。
そうしたものが複雑に絡み合って、人生が形づくられていますよね。
そう考えると、人生がうまくいくかどうかを、あまり気にしすぎる必要はないかもしれません。
お金に恵まれる人もいる。
職業に恵まれる人もいる。
容姿に恵まれる人もいる。
家族に恵まれる人もいる。
そうでない人もいる。
けれども、それがどこまで自分一人で作り上げたものなのかは、実はよくわからりません。
マイケル・サンデルの教え
ハーバード大学の政治哲学教授マイケル・サンデルは、その著書『実力も運のうち 能力主義は正義か?』でも言っていますね。
「成功したのは自分の実力と努力のおかげだ」という考え方(能力主義・メリトクラシー)は危険だ。間違っている。
生まれ持った才能や恵まれた環境、巡り合わせといった「運」も成功の大きな要因だ。
能力主義は勝者を傲慢にさせ、敗者に劣等感を抱かせる不平等な社会構造を生み出しているとも指摘しています。
ごもっともです。
マイケル・サンデルは、カルマ的なものを「運」といっていますね。しかも、人生上の成功や不成功だけで、自分の価値を決めなくてもよいことも示唆しています。
至言ですね。
大事なことは霊性を高めていくこと
で、大事なことは自分の魂を磨くことですなんですね。
意識を向上させていくことなんです。
それは、実体験からも言い切れます。断言できます。
内なる神、内なる光に気づくこと。それを育てていくこと。そうすることで内なるしあわせが豊かになっていきます。
で、これを古来より宗教では、「霊性(れいせい)」といっていました。
霊性を高める生き方へ|心を軽くし意識を高めていく
カルマの話しを突き詰めていきますと、結局、霊性を高める生き方に着地するんですよね。
霊性とは、内側からよろこびをともない、良心があり、愛があり、安穏があり、世界宇宙に感謝するといった心が渾然一体となった意識なんですね。
グレートスピリット、宇宙意識などなど、いろんな言い方ができます。
で、それを如実に、ハッキリと感じる、体験することもあります。
霊性を高める4つの実践
で、霊性に根ざした生き方をするためには、まずは、瞑想によって心を軽くしていくこと。
これが第一歩なんですね。
心が重たいままでは、何を見ても暗くなります。カルマの話も、家系の話も、前世の話も、すべて重たく受け取ってしまいます。
ですから、まずは心を軽くする。
瞑想をする。
祈る。
認知を良くする。
天啓気療やセッションをサポートとして受ける。
とらわれを減らしていく。
よさげな感じになっていく。
これが大切なんですね。
これらを「4つの実践」としてまとめています。
そのうえで、できればプレゼンス、真我の領域に開けていく。そこに開けたら、さらにそれを深めていく。
意識の高次元化を目指していく。
こうした取り組みをしていく中で、カルマも軽減していくでしょうし、家系的なよろしくない影響も解消されていくのではないかと思います。
まとめ|カルマよりも実践を大切にする
今日は、生まれ変わり(輪廻転生)とカルマについてお話ししました。
一般的には、カルマというと、自分が前世で行ったことが今世に返ってくる、というバケツリレー式のとらえ方が知られています。
けれども、スピリチュアリズムの情報を見ていくと、それだけではなく、
・中有や冥府を経て生まれ変わるケース
・天人の世界から生まれ変わるケース
・類魂の未解決なものを背負って生まれてくるケース
・動物的な意識から新しい魂として人間に生まれるケース
など、いろいろなケースがあります。
そう考えると、生まれ変わりやカルマは、非常に複雑になってきます。一筋縄では説明しきれない。よくわからないところもあります。
だからこそ、あまりカルマを気にしすぎない方がいいんですね。よくわからないところがある。
しかも、カルマを気にしすぎると、暗くなります。重たくなります。責任転嫁にもなりやすい。
それよりも、今できる実践をすることですね。
- 瞑想する
- 祈る
- 認知を良くする
- 心を軽くする
- 人に対して良い行為をする
- 礼節、思いやり、施しを大切にする
- 意識を高める方向へ進む
人生がうまくいく時もあれば、そうでない時もあります。
けれども、良かろうが悪かろうが、志を持って意識を高めていく実践をしているならば、人生上のいろいろな出来事に、そこまで振り回されなくなっていきますね。
この積み重ねが、結局はカルマを軽くし、魂を磨き、意識を高めていくようになります。
今日は、そういうお話になります。
