真我に関する様々な表現
ちなみに生命の実相・根源意識のことは、
・インドのヨーガでは真我・ブラフマン、
・原始仏教では補特伽羅(プトガラ)、極光浄(ごくこうじょう)、善
といっています。
真我=ウパニシャッド、ヨーガ、ヒンドゥ教での表現
そもそも真我とは、インドのウパニシャッド系の宗教(ヒンドゥ教、ヨーガ)で使われている宗教的な概念ですね。
「本当の自分(真実の自分)」のことをいいます。
で、真我は「永遠不滅の変わらない自分」としています。
ウパニシャッドやヨーガ、ヒンドゥ教では、まず本当の自分(真我)に目覚めて、それが宇宙意識(ブラフマン)を一体化することを理想としていました。
この一体化は、バガバットギーターでは「ギャーナ・ヨーガ(智慧の道)」「バクティ・ヨーガ(信仰の道)」「カルマ・ヨーガ(行為の道:善行)」としてまとめられ、ヨーガスートラでは「ラージャ・ヨーガ(瞑想の道)」としてまとめられます。
善・極光浄心・補特伽羅=原始仏教では真我の代替
ちなみに原始仏教(ブッダ)は真我を否定していました。なぜ否定したのかといえば、解脱・悟りにいたれば、「今の様子(いまここ)」しかなくなるため、「永遠不滅」というのが概念に過ぎないことを喝破していたからです。
その代わりに仏教(ブッダ)は、真我という言葉から永遠不滅の性質を排除して、「善」「極光浄(ごくこうじょう)」「補特伽羅(ぷとがら)」という言葉で、真我が持つ性質を言い表しています。
善=サットバ
ちなみに、「善(純粋)Kusala」とはサットバであり、真我の性質そのものになります。
極光浄心=汚れのない純粋な心
また「極光浄心(ごくこうじょうしん)Pabhassara-citta」は、パーリ仏典「増支部」一集 第六 弾指品にあります。
ここには「比丘衆よ、この心は極光浄(光り輝く)なり。しかしそれは客随煩悩に雑染(汚染)せられたり」とあり、汚れのない純粋なのが心の本質であることをいっています。これはまさに真我のサットバ性そのものでしょう。
補特伽羅=輪廻の主体
「補特伽羅(ぷとがら)Puggala」は、パーリ仏典においては、人、個人、主体を指し「仮実(仮の存在)」としていましたが、部派仏教の時代になると、たとえば犢子部(とくしぶ)では、輪廻の主体として「実在する」と主張するようになっています。
結局、ブッダの時代では「仮実」として曖昧な扱いをしていたものの、やはり輪廻の主体になり得るということで、一歩進んで「輪廻の主体(真我:アートマン的なもの)」として言い出すようになったんじゃないかと思っています。
ちなみにその後、部派仏教では、補特伽羅を巡る論争に至っています。
ですが、「真我から永遠不滅・不変性・固定性」を排除したのが補特伽羅(ぷとがら)とすればスッキリすると思います。この辺りは、実際に瞑想を行い、高次意識体験をしないとわからない(体感的に理解できない)領域になると思います。
名色分離智=テーラワーダ仏教での表現
ちなみに同じ仏教でもテーラワーダ仏教では、真我的な感覚に開けることを、名色分離智(みょうしき-ぶんりち)といっています。
ちなみに、名色分離智とは、心(名)と身体(色)を分離してとらえるという意味ではなく、心(名)や身体(色)などの対象に、今までベッタリくっついていた一体性が離れて(分離して)、あるがままに観る(感じる)ことができるようになった意識(智慧)をいいます。
で、これは実質、プレゼンスであり、真我感覚がわかる第一歩・はじまりを示していると感じています。
つまり、真我(プルシャ)そのものではありませんが、真我がわかり始める感覚ですね。
ただし繰り返しになりますが、テーラワーダ仏教でも、真我はNGです(永遠不滅の実態を認めません)。
そこで永遠不滅の概念を排除して「補特伽羅」「極光浄」といったり、真我がもたらす性質である「善」にフォーカスした表現を取っています。原始仏教と同じスタンスですね。
徳=タオでの表現
また、中国のタオ(道)では、老子が説いた「道徳経」が代表的ですが、宇宙の根源意識を「一(いち)」「道」としていますね。
またここから表出するエネルギーを「徳」としています。
その後の孔子は、徳を「仁義礼智信」の「五常の徳」とし、孟子は「仁義礼智」を「四端」とし、中国では根源意識から生じる徳にフォーカスした表現や実践が好まれていきます。
なお
厳密にいえば徳は、真我そのものの意識ではありませんが、真我の香りといいますか、真我からもたらされるエッセンスともいえます。
仏教が説く「善」、イエスが説いた「愛」と同じですね。タオ、根源意識からのギフト、それが徳。
愛=イエス、グノーシスでの表現
愛というのは、真我意識そのものではありませんが、真我からもたらされる香りであり、恩恵だと感じています。
ですが、愛を頼りに真我にたどりつくことができます。
しかも愛は、恩恵が大きいですので、善、徳と同様に愛も、真我的な意識としていいのではないかと思います。慈悲もそうですね。実利性があります。
ちなみに、愛にも、神への愛、隣人愛などありますが、性質はいずれも垣根のない愛、普遍的な性質がありますので、どれも同じとみなして良いかと思います。
内なる神=グノーシスでの説明
キリスト教には真我的な表現はまったくといっていいほどありません。キリスト教では、旧約聖書の「創造主」を採用していますが、怖く支配的な父のイメージです。これは真我とはかけなはれたイメージなんですね。
そもそも近代における最新の研究では、キリスト教は、イエスの教えを曲解した宗教と指摘されています(エレーヌ・ペイゲルスほか)。
その代わりに、キリスト教に陶太破戒されたグノーシスでは、「内なる神」といっています。で、イエスは「内なる神を求めよ」と教えています。
トマス福音書 3節
「神の国」はあなたがたの中にある。自分自身を知るならば、それがわかるであろう。そして自分が生ける父の子らであることを知るであろう。しかし、あなたがたがは自分自身を知らないなら貧困にあり、これが貧困なのである。
ちなみにキリスト教の新約聖書の福音書には、これに通じる言葉があります。
ルカ17章21節
神の国はあなたがたの間(中)にあるのだ
内なる光=ジョージ・フォックス
ちなみに、17世紀にクェーカーを創設したジョージ・フォックスは、「内なる光」を求めることそこ、神を知ることであると説いていました。
さらには、アメリカを代表するエマーソンとユニテリアン教会でも、仏教の仏性と同じ意味の「創造主」や「内なる光」を唱える超越主義を説いています。
グノーシスやキリスト教の一部では、真我のことを「内なる神」「内なる光」としています。
宇宙意識=リチャード・モーリス・バッグが使用
現代覚者やスピリチュアルでは、真我の持つ生命の実相という特質よりも、意識の特徴にフォーカスした表現を取っています。
意識の広がりとしての「宇宙意識」や「根源意識」、自分が無くなったという意味での「無我(解脱の無我とは異なる)」といった言い方です。
宇宙意識は、19世紀初頭にクンダリーニ覚醒体験をしたリチャード・モーリス・バッグが最初の提唱者ですね。
その後、金星人と遭遇してUFOブームを巻き起こしたジョージ・アダムスキーも使用します。
ハイヤーセルフ=神智学(ブラヴァツキー)が使用
あと、近年では定番となっている「ハイヤーセルフ」。これはどうやら19世紀初頭に神智学を打ち立てたマダム・ブラヴァツキーが使ったことによって、世界中に広まったようです。
現在ではスピリチュアルでもっとも多く使われている言葉ですね。
今では「真我」「宇宙意識」よりも、「ハイヤーセルフ」のほうが「本当の自分」として受け止めらる向きがあります。
ハイヤーセルフの受け止め方に注意
ただし、ハイヤーセルフは、別の人格(本当の自分)が存在しているかのような受け止め方をしているところも感じさせます。
別のところのハイヤーセルフが存在していると受け止めると、守護霊(ガイド)といった背後霊のような感じになったり、あるいは頭上にあるチャクラとして、意識を解離(二分)させる懸念も出てきます。
本当の意味での「ハイヤーセルフ」、つまり真我は、どこかに存在するのではなく、自分の中にあります。
グノーシスが言う「内なる神」、ジョージフォックスのいう「内なる光」、リチャード・モーリス・バッグの「宇宙意識」、仏教が説く「善性」、ウパニシャッドが説く「真我」といったほうが、ニュアンスとしては正しくなります。
ハイヤーセルフは、意識を二分する表現にもなりやすいため、受け止め方に注意が必要だと思いますね。
真我の表現は数多くある
このように真我に関する説明は、いろんな言い方や表現があります。
生命の実相・根源意識は、さまざまな性質も帯びていて、善、エネルギー、一体感(ワンネス感、垣根が薄くなる感)、よろこび、あたたかさ、やわらかさを生じる性質があります。
ちなみに神道における「玄胎」という言い方は、ちょっと違うかもしれませんね。
宗教や思想ごとに表現が違うのは、それぞれの教義や文化的背景、認知のフィルターが違うからでもあります。ですので、語だけを見て同じ・違うと早く決めすぎないほうがよいですね。
真我への通過点はプレゼンス
瞑想会では、真我への開眼を一つの到達点としています。
で、真我に啓(ひら)けるために、プレゼンスを一つの通過点としています。
プレゼンスが深まると「楽になる」
プレゼンスは、体感的にいえば、理屈抜きに「いまここ・あるがまま」感が深まり、とらわれ感が減って平穏になり、知的な諸々や情緒的な諸々に対してのベッタリ感が軽減します。
人によって説明が違ってくると思いますが、一言でいえば、それまでと比べて「楽になる」という言い方ができると思います。
また宗教的な教義・観念・概念に対しては、年月とともに色あせて感じられてくるようになりますので、言葉で構築した宗教やスピリチュアル、思想、哲学に対して違和感が強くなっていくようになります。
プレゼンスは、それ自体が最終到達点というより通過点になりますが、真我や根源意識の味わいがわかってくる意識です。
なおプレゼンスそのものについては、こちらで詳しく書いています。
プレゼンスとは?|真我(本当の自分)という高次意識への入り口
真我は生命の実相・根源意識とも言い換えられる
ちなみにプレゼンスを別の言い方をすれば、生命の実相・根源意識に開けることを、知性で感じる有り様という言い方が出きます。
こちらのほうが現代的かもしれません。
プレゼンスは、知性(頭)以外にも、
ハート(愛)で感じる、
お腹(広がる存在)で感じる
こともあって、実のところ人それぞれによって感じ方や感じる部位に違いがあったりします。
感じる部位や表現には個人差がある
また、その感じ方にも浅い深いもありますし、それぞれの認知のフィルターによって、表現も微妙に違ってまいります。
ですが、生命の実相、根源意識を感じていることには変わりがないということですね。
表向きの表現が違うからといって、別物ではありません。
それぞれの感じ方や、認知の違い、国や地域における文化的背景によって、真我に対しての言い方は違っていますね。
ですので、この記事では「真我」に関するさまざまな表現をまとめてみようと思った次第です。
近年の覚醒本や欧米的な説明には注意も必要
ところで2000年代になってからは、欧米における現代覚者の説明が幅を利かせています。ですが、説明の仕方に、幾分ノイズも含まれているなあと感じています。
近年出回っている覚醒本は、欧米人の感性や認知、文化的な背景に基づいた表現を取っていますので、多少注意する必要もあるかと思います。
もちろん参考になるものもあります。けれども、その表現の背後にある文化差や認知の癖まで見ないと、表面の言葉だけを取り入れてしまうことがあります。
とくに「無我感」「広がり」「宇宙意識」などの表現は便利な反面、読む側の理解によってかなりズレやすいところもあります。
欧米の覚醒本に親しむとしても、言葉を鵜呑みにするより、自分の体験や日々の実践と照らし合わせながら読むことが大切だと思います。
欧米的な自己超越や覚醒の説明については、こちらも参考になります。
マズローの自己超越とは何か|至高体験・エサレン研究所・瞑想との関係
やはり自分で体験体得していくことが大切
さまざまな宗教や教えなどに伝わる真我的な意識について真我を説明しましたが、やはり自分で体験体得していくことが望ましいですね^^
それと、心を感じて洞察する力を高め、日々瞑想や坐禅を実践実習をして、心やエーテル次元・アストラル次元におけるよどみや不浄を解放していくこと。これも大事ですね。
一瞥体験や覚醒体験、エネルギー体験をしても瞑想や坐禅は欠かせませんので、日々の実践実習がやはり大切ですね!
また天啓気療やセッションを受けることで、心やエーテル次元・アストラル次元を浄め整えることができて、より真我的な意識に開けていくようになりますので、こちらもおすすめになります^^
そういうことになりますが、今年も励んでまいりましょう!
小林紀生
より深い学びのために
霊性(スピリチュアリティ)の特徴については、こちらでもまとめています。
霊性(スピリチュアリティ)とは何か|瞑想実践に欠かせない感受性・善性・正見
意識の底流にある心の変化については、こちらも参考になります。
今日のお話は、こちらの散歩トークも参考になると思います。

