綱島梁川の「予が見神の実験」は、明治の日本に残された宗教体験の記録の中でも、とりわけ強い印象を残す手記です。
病苦の中で祈り、静かに坐し、自分の内側を見つめ続けた末に、梁川は31歳の年に三度の神秘体験を経験しました。
そして、その最後に訪れた「見神の体験」は、現代風にいえば一瞥体験、あるいは宇宙意識体験とも呼びうるものでした。
この記事では、綱島梁川とはどのような人物だったのか、「予が見神の実験」とは何を意味するのか、そして彼が体験した三度の神秘体験の内容を、原文も引きながらわかりやすく整理していきます。
あわせて、その体験が明治の青年たちにどのような反響を呼んだのか、また梁川自身がその体験をどれほど誠実に検証していたのかについても見ていきます。
綱島梁川とはどんな人物か
綱島梁川(つなしま りょうせん、1873〜1907)。本名は綱島栄一郎。
明治6年(1873年)に岡山県生まれ。岡山県出身の思想家・評論家・倫理学者です。
34歳という短い生涯でしたが、明治期の宗教思想史において忘れがたい足跡を残した人物です。とりわけ1905年に発表した「予が見神の実験」は、明治の日本に大きな衝撃と反響を呼びました。
綱島梁川の経歴
綱島梁川は1873年5月27日、岡山県に生まれました。
14歳の1887年、地元の高梁教会でキリスト教の洗礼を受けています。この若き日の受洗が、その後の思想の出発点となりました。
1892年、東京専門学校文科(現在の早稲田大学)へ進学。ここで坪内逍遥や大西祝といった明治を代表する知性と出会い、哲学・文学・美術など広い領域への関心を深めていきます。
1895年の卒業後は、『早稲田文学』の編集にも関わりながら、哲学・思想・文芸・美術にわたる評論活動を精力的に展開しました。
しかしその翌年、1896年に喀血。肺結核の診断を受け、逗子・神戸などを転々としながら療養生活に入ることになります。
この療養生活への転換が、梁川の思想に決定的な変化をもたらします。病床での孤独と死への直面が、机上の学問では届かない問いを彼に突きつけたのです。
1904年、31歳の年に決定的な宗教体験を得ます。翌1905年、その体験の記録「予が見神の実験」を発表。そして1907年9月14日、34歳の若さで生涯を閉じました。
綱島梁川の宗教遍歴——制度宗教から直接体験へ
綱島梁川の宗教的な歩みは、一言でいえば「制度的な信仰から、直接的な内面体験へ」という深化のプロセスでした。
出発点はキリスト教です。
14歳で洗礼を受けた梁川は、教会生活の中で信仰を育てていきました。
しかし大学での学びと、その後の闘病生活の中で、彼はしだいに教会的・制度的なキリスト教では満足できなくなっていきます。
梁川自身は「予が見神の実験」の中でこう述べています。
以前の信仰には他者の人格や証言に依存した面が多かった、しかし今は「自ら独立にわが至情の要求に神の声を聴かむ」とした、と。
これは、他者の体験や教義の伝承ではなく、自分自身の直接体験によって神を知りたいという、強烈な渇望の表れです。
さらに研究によれば、1903年頃以降の梁川は、キリスト教に加えて浄土教的な祈りも重視するようになり、宗教体験を中心軸に据えた独自の宗教思想を深めていったとされています。
特定の宗派の枠を超え、「直接的な神との出会い」を求め続けた——それが梁川の宗教遍歴の本質でした。
綱島梁川の病気——病苦が深めた宗教的思索
綱島梁川の後期思想を理解する上で、病気の問題は切り離せません。
1896年の喀血以降、梁川は肺結核との長い闘いを余儀なくされました。逗子・神戸などへの転地療養を繰り返しながら、彼は病床で宗教的思索を深めていきました。
肺結核は当時、有効な治療法がほとんどなく、緩やかに死へと近づいていく病でした。
梁川はその現実を正面から見据えながら、「死とは何か」「神は実在するのか」「人間の魂はどこへ向かうのか」という問いと格闘し続けたのです。
重要なのは、梁川の宗教思想が書斎での知的作業から生まれたものではないという点です。
死の影と隣り合わせの日々の中で、祈り、静座し、内側を見つめ続けた末に、あの見神体験が訪れました。
カーライルが「永遠の否定」の極限状態の中で覚醒体験を得たように、梁川もまた病苦という極限状態の中で、「予が見神の実験」に記された三度の神秘体験へと至ったのです。
見神体験(一瞥体験)をする者に多い「極限状態の苦悩と、その格闘」は、綱島梁川にも見られます。
綱島梁川は一瞥体験をした
で、綱島梁川は、いわゆる「見神体験」をしています。綱島の「見神体験」は現代風にいえば「一瞥体験(いちべつたいけん)」といえます。
亡くなる3年前の31才の年に体験しています。
しかも31才の年には2回の神秘体験をして、その直後に一瞥体験をしています。小出しに神秘体験をして、最後に大きな神秘体験(一瞥体験)をしているんですね。
ちなみに明治の時代には、綱島梁川と似た体験をした人に、伊藤証信がいます。こちらでくわしく解説しています。
綱島梁川著「予が見神の実験」
綱島梁川は、自らが体験した神秘体験を、亡くなる2年前の明治38年5月に刊行した「予が見神の実験」という書にしたためています。
「予が見神の実験」とは、「私は見神(神に見[まみ]える)ことを実際に体験した」という意味ですね。ここで使われている「実験」とは「実際の体験」という意味です。
綱島梁川は、2度の神秘体験を経て、3度目にハッキリとした見神の体験(一瞥体験)をしています。
綱島梁川の3度にわたる見神体験とは?
で、綱島梁川は、明治37年の31才の年に、一年で3回、神秘体験をします。
神秘体験を2回体験し、3回目のときに自身が神となる体験、つまり宇宙意識体験、一瞥体験をします。整理しますと、
- 明治37年7月(31才)・・・大歓喜体験(神の愛体験)
- 明治37年9月(31才)・・・世界と一体となる体験(ワンネス体験)
- 明治37年11月(31才)・・・神と一体となる体験(見神の体験、宇宙意識体験、一瞥体験)
という体験ですね。
このことが「予が見神の実験」に詳しく述べられています。「予が見神の実験」は著作権が切れていますので、原文から引用しながら説明したいと思います。
1度目の神秘体験:「大歓喜体験」
綱島梁川が最初に神秘体験をしたのが、明治37年7月(31才の年)だったようです。
「大歓喜体験」と言っています。
綱島梁川は、病気療養のために、毎夜1時間ほど、ただ坐っていたといいます。その日は、心が澄み切ったかなあと思いきや、突如、大歓喜がわきおこったといいます。これが15分続いたと。
これはいわゆる「神の愛」の体験でしょう。神の愛を体験すると、大歓喜がわき起こります。
ちなみに綱島梁川は、それまでも時々、歓喜がわきおこることがあったといいます。この歓喜は、心がわーっと高揚し、人類愛に似た気持ちにあふれる体験じゃないかと思います。
おそらくキリスト教を信仰していたことと関係があるんじゃないかと思います。綱島梁川はキリスト教の信仰を通して、神の愛・人類愛のプチ体験が、頻繁に起きていた形跡もあります。
しかし明治37年7月(31才)のときの大歓喜の体験は、それまでの歓喜体験とは異なり、強烈だった様子です。
【著書「綱島梁川 予が見神の実験」より】
第一の体験——大歓喜(明治37年7月)
最初の経験は昨年七月某日の夜半(日附を忘れたり)に於いて起こりぬ。予は病に余儀なくせられて、毎夜半凡そ一時間がほど、床上に枯坐する慣ひなりき。その夜もいつもの頃、目覚めて床上に兀坐しぬ。四壁沈々、澄み徹りたる星夜の空の如く、わが心一念の翳を著けず、冴えに冴えたり。爾時、優に朧ろなる、謂はば、帰依の酔ひ心地ともいふべき歓喜ひそかに心の奥に溢れ出でて、やがて徐ろに全意識を領したり。
この玲瓏として充実せる一種の意識、この現世の歓喜と倫を絶したる静かに淋しく而かも孤独ならざる無類の歓喜は凡そ十五分時がほども打続きたりと思ぼしきころ、ほのかに消えたり。
アンダーラインを引いた箇所は重要なので、今風の言い方に表現すると次の通りです。
私は病の中、毎晩、約1時間の坐禅をしていた。明治37年7月の夜も坐禅をしていたところ、澄み渡った星空のように、私の心には雑念も浮かばなくなり、冴えに冴えわたった。
そのとき朦朧としながらも、神に帰依をして酔いしれたときの心地、歓喜が心の奥からあふれてきて、やがて意識全体が歓喜となった。
この透き通っていながら充実している意識(歓喜)は、通常の歓喜とはまったく異なり、静かでありながらも孤独を感じさせない比類無き歓喜だった。15分ほど続いたが、やがて消えていった。
この章の最後には「地上にいながら天上の生活の面影を偲ぶような気持ちになります」とあります。
これはまるで天界に至ったかのような描写です。もしかするとこの体験は、覚醒体験などではなく、アストラル体験(霊的な神秘体験、変性意識体験)だった可能性もあります。
2度目の神秘体験:世界と一体となる「ワンネス体験」
2回目の体験は、2ケ月後の明治37年の9月(31才の年)に神秘体験をします。
それは夕方に銭湯へ行く途中、見ている景色(世界)と一体となる「ワンネス体験」だったようです。
「吾れ神と与に観たり」「天地の奥なる実在と化りたるの意識」とありますので、一体感(ワンネス)体験でしょう。
【著書「綱島梁川 予が見神の実験」より】
第二の体験——神とともに見たワンネス体験(明治37年9月)
今一つは昨年九月末の出来事に繫れり。予は久しぶりにて、わが家より程遠からぬ湯屋に物せんとて、家人に扶けられて門を出でたり。折りしも霽れ渡りたる秋空の下、町はづれなる林巒遠く夕陽を帯びたり。予はこの景色を打眺めて何となく心躍りけるが、この刹那忽然として、吾れは天地の神と偕に、同時に、この森然たる眼前の景を観たりてふ一種の意識に打たれたり。
唯だこの一刹那の意識、而かも自ら顧みるに、其は決して空華幻影の類ひにあらず。鏗然として理智を絶したる新啓示として直覚せられたるなり。予は今尚ほ其の折を回想して、吾れ神と与に観たりてふその刹那の意識を批評し去る能はず。
若干、意訳を交えると、
明治37年9月の末、久しぶりに銭湯へ行こうとして家の門を出た。折しも晴れ渡った秋空の下、町はずれの林や山が遠くで夕陽に映えわたっていた。
この光景を見ていると、心が躍ったが、突然、私は天地の神と合一し、同時に目の前の光景を見ているという意識になった。
一瞬の出来事であったが、思い返しても、決して幻覚や妄想の類ではない。理知を超えた啓示として感じられた。思い返しても「私は神とともに光景を見ていた」という、一瞬の意識であったが否定できない。
これは「神とともに見ていた」とありますので、神を感じながら世界と一体化するワンネス体験でしょう。
最初が通常の歓喜を超える歓喜「大歓喜体験」。その次が神とともにいながら世界をながめる「ワンネス体験」。綱島梁川は、このように2ケ月の間を置いて、連続して神秘体験をします。
3度目の神秘体験:神と一体となる一瞥体験(見神の体験)
綱島梁川の神秘体験のなかでも極めつけなのが、2度目の神秘体験が起きた2ケ月後の明治37年11月(31才の年)に起きた「一瞥体験」です。それを「見神の体験」といっていますね。しかしこれこそが「一瞥体験」です。
三回目の実験(見神の体験)は、最もインパクトがあり強烈だったと言っています。
それは、その夜、燈明の下で筆を取っていたところ、自我が消えて神が現前し、神が筆を取るといった体験だったようです。神との合一体験です。このときには自分が消えていましたので、無我の体験と言っていいのではないかと思います。
この体験は、わずかの刹那(短時間)であったものの、無限の深みを感じたとあります。
これぞ一瞥体験ですね。神そのものになる体験。宇宙意識体験でもあります。
「我は没して神みづからが現に筆を執りつゝありと感じたる意識」とありますので、まさに無我ですね。小さな自分ではなく、宇宙・神となった宇宙意識体験でしょう。
また「予は今、これ以上、又以外にこの刹那に於ける見証の意識を描くの法を知らざる也」とありますので、先の2度にわたる神秘体験をはるかに上回る強烈な体験だったことがわかります。
ちなみに一瞥体験には、深い浅いがあります。
綱島梁川の場合は、深い体験だったことがわかります。
なぜなら、この一瞥体験後、身体に変容が起きたことや、創造主に対する深い思いがリアルになり、しかも強くなったことを述べています。またこの体験のときに「神の愛」を体現体得したことも述べています。大変、興味深いですね。
なお身体の変容は、いわゆるチャクラの覚醒体験でしょう。これも一瞥体験者には時々みられる現象です。
【著書「綱島梁川 予が見神の実験」より】
第三の体験——見神の体験(明治37年11月)
終はりに語らんとするもの、是れ曩に驚絶駭絶の経験と言ひたるものにして、これまで予が神の現前につきて経験せるもののうち、かくばかり新鮮、赫奕、鋭利、沈痛なるはあらじと思はるゝ程なり。小生あの夜の実験以来、驚きと喜びとの余勢、一種のインスピレーションやうのもの存続いたし候て、躰にも多少の影響なきを得ず候ひき。彼の事ありてこのかた、神に対する愛慕一しほ強く相成申候。
如何にすればこの自覚を他に伝へ得べき乎とは、この頃の唯一問題にて候也。一面にはこの自覚、人に知られたしとの要求有之候へど、他の一面には、更に真面目に、厳粛に、世の未だこの自覚に達せず又は達せんとて悩みつゝある多くの友に対する同情を催起いたし居候。この事によりて、小生幾分か、釈迦の大悲や、基督の大愛を味ひ得たる感有之候也。
この箇所を今風にわかりやすく書くと、
3度目の体験(明治37年11月の夜)は、今も反復して再現できる。ますますその超越的な偉大さに驚き、ますます不動の真理であることを確信する。
あの夜の実体験以来、驚きと喜びが残っており、一種のインスピレーションのようなものが続いている。しかも身体にも多少の影響が出ている(チャクラ覚醒も起きた)。この体験があってから、神に対する愛慕はいっそう強くなった。
しかしいかにして、この感覚を他人に伝えるかは、この頃の大きな問題であった。一面には、この自覚を他人に教えたいという欲求もある。
しかし反面、世の中にはまだこの感覚がわかっていない友、あるいは達したいと悩んでいる多くの友人に対するかのような、真面目で厳粛な同情心もあった。これは釈迦の慈悲やキリストの愛であるかのような感覚でもある。
このようになります。綱島梁川の手記を続けます。
げに彼の夜は物静かなる夜にて候ひき。一燈の下、小生は筆を取りて何事をか物し候ひし折のことなり、如何なる心の機にか候ひけむ、唯だ忽然はつと思ふやがて今までの我が我ならぬ我と相成、筆の動くそのまゝ、墨の紙上に声するそのまゝ、すべて一々超絶的不思議となつて眼前に耀き申候。
この間僅かに何分時といふ程に過ぎずと覚ゆれど、而かもこの短時間に於ける、謂はば無限の深き寂しさの底ひより、堂々と現前せる大いなる霊的活物とはたと行き会ひたるやうの一種の Shocking 錯愕、驚喜の意識は、到底筆舌の尽くし得る所にあらず候。
唯だ兄の直覚に訴へて御推察を乞ふの外之れなく、今はその万一をだに彷彿する能はず候。
あの夜(明治37年11月の夜11時頃)は、物静かな夜でした。一灯の下で、私は筆を取って何かを書いていました。
突然——はっと思った瞬間、今まで「自分」だったものが「自分でない自分」になりました。筆が動くそのまま、墨が紙の上を滑るそのまま、すべての一つひとつが超絶的な不思議として目の前に輝いていました。
その時間はほんの数分に過ぎなかったと思います。しかしその短い時間の中で、無限の深さを持った静寂の底から、堂々と現れ出た大いなる霊的な生命とはたと出会ったような(自分が消え去って、神そのもの(広大なるとしか言いようが無い「宇宙意識」)となった意識)——そのShocking(衝撃的)な驚愕と驚喜の意識は、とても言葉では言い尽くせません。
ただあなたの直覚に訴えて察していただくしかありません。
さらに続けます。
されば、予をして今一度最も厳密に件の意識を言ひ表はさしむれば、今まで現実の我れとして筆執りつゝありし我れが、はつと思ふ刹那に忽ち天地の奥なる実在と化りたるの意識、我は没して神みづからが現に筆を執りつゝありと感じたる意識とも言ふべき歟。
予は如是に神を見たり、如是に神に会へり。否、見たりといひ会へりといふの言葉は、なほ皮相的、外面的にして迚もこの刹那の意識を描尽するに足らず、其は神我の融会也、合一也、其の刹那に於いて予みづからは幾んど神の実在に融け合ひたるなり。
我即神となりたる也。感謝す、予はこの驚絶、駭絶の意識をば、直接に、端的に、神より得たり、一毫一糸だに前人の証権を媒とし、若しくは其の意識に依傍したる所あらざる也。(彼等が間接なる感化は言はず。)
(明治三十八年五月)
アンダーラインを引いた箇所を、意訳しながらまとめて、現代風に改めてみます。
改めて、あの瞬間を最も厳密に表現するなら——「今まで現実の自分として筆を取っていた自分が、はっと思う刹那に、天地の奥にある実在そのものになった」「自分は消えて、神自らが筆を取っていると感じた」——そう言うべきかもしれません。
私は確かに神を見た。本当に神に会った。いや「見た」「会った」という言葉は表面的であって適切ではない(表現できない)。しかし、それは神との融合、合一であって、その瞬間、私は神に溶け込んでいた。「我すなわち神」という感覚。
私は感謝している。この驚くべき、言葉で説明のできない意識は、直接、神さまから得たものだ。誰かが書いた宗教書からわずかでも参考にしたものではない。またその意識に似たようなものはない。
自らの神秘体験を検証し続けた綱島梁川
こうした一瞥体験をした綱島梁川ですが、彼は自らの体験が迷妄、錯覚でないかと、幾度も検証しています。また第三者にも検証を求めています。
こうしたことも「予が見神の実験」の中で述べています。実に科学的といいますか、誠実なんですね。
昨今多い、なんちゃってスピリチュアリストとは一線を画します。神秘体験を容易に信じ込む浅薄な輩とは違うこともわかります。
体験したことに対して、徹底的に検証しようとする姿勢は、この道においては欠かせません。安易に信じ込むようでは、まったくお話しになりません。綱島梁川は、正真正銘のスピリチュアリストです。
【著書「綱島梁川 予が見神の実験」より】
予は予が見神の実験の、或は無根拠なる迷信ならざるかを疑ひて、この事ありし後、屢〻之れを理性の法庭に訴へて、其の厳正不仮借なる批評を求めたり。
而して予は理性が之れに対して究竟の是認以外に何等の言をも揷む能はざるを見たり。
予は又この実験の、予がその折の脳細胞の偶然なる空華ならざりしかをも危ぶみて、虚心屢〻之れを心上に再現して、前より、後ろより、上下左右、洩らす所なく其の本躰を正視透視したり、而して其の事実の、竟に巋然として宇宙の根柢より来たれるを確めたり。
されど、予は尚ほこの実験の事実が、万が一にも誇大自ら欺きしものにあらざるかを虞れて、其の後も幾度となく之れを憶起再現し、務めて第三者の平心を持して、仔細に点検したりしが、而かも之れを憶ひいづる毎に、予は倍〻其の驚くべき事実なるを見るのみ。
そは到底如実には言ひ表はしがたき稀有無類の意識也。今やいよいよ一点の疑をも容れがたき真事実とはなりぬ。
現代風にわかりやすく書き改めますと、
私は、この見神の体験が根拠のない迷信ではないかと疑い、この体験の後、何度も理性の法廷に訴えて、厳しく批判的に検証しました。
しかし理性は、この体験を認める以外に何も言えないと判断しました。
また、この体験が脳細胞の偶然の生み出した幻覚ではないかと危ぶんで、心を虚にして何度もこれを心の中に再現し、前から後ろから、上下左右から、もれなく正視・透視しました。そしてこの体験が、確かに宇宙の根底から来たものであることを確かめました。
さらに、万が一にも自分を欺いていないかと恐れて、その後も何度も思い起こし、できる限り第三者の目で仔細に点検しました。しかし思い起こすたびに、私はますますその驚くべき事実を見るばかりです。
これは到底言葉では言い表せない、稀有無類の意識です。今やもはや、一点の疑いも入れようのない真実となっています。
綱島梁川の体験は悟りではない
これが綱島梁川の神秘体験と一瞥体験です。「予が見神の実験」に記載されていることですね。
しかし綱島梁川の体験は、悟り体験ではないんですね。ええ。悟りではありません。
悟り体験は認識が変わります。
てか悟りには体験がありません。
認識がいったん止みます。
だから「悟り」なんですね。
これが一瞥体験などの神秘体験と、悟り体験との決定的な違いです。
綱島梁川のような一瞥体験は、まれに体験する人もいます。実は私もしています。だから、綱島梁川の体験がわかるんですね。
綱島梁川は体験を「認識」しています。認識が残っています。認識のある体験です。だから悟りではなく、「高次意識体験」になるんですね。
認識・体験があるうちは悟りではないんですね。
私も同じような体験があるので、綱島梁川の体験が悟り体験でないことがわかるんですね。
けれども、悟りではなくても、尊く崇高な「高次意識体験」です。これはこれで貴重です。素晴らしい。心身が変容することも起き得る体験です。
で、悟りではない体験(一瞥体験や覚醒体験)を悟りとして公表すると、大概は苦境に陥ります。なぜなら、悟りではないからです。
綱島梁川は坐禅をしていたか
なお綱島梁川の「予が見神の実験」には、見神体験が起きた背景として興味深い記述があります。
「予は病に余儀なくせられて、毎夜半凡そ一時間がほど、床上に枯坐する慣ひなりき」——病のために、毎晩深夜に約一時間、床の上でただ静かに座る習慣を続けていたということです。
この「枯坐(こざ)」という言葉は、禅の坐禅に用いられる表現と重なります。
しかし確認できる資料では、綱島梁川が禅僧のもとで継続的に坐禅修行をしていたという明確な記録は見当たりません。
綱島梁川はどういう修行をしていたのか?
綱島梁川は、手記の中で、『「見」と「信」と「行」について』と題して、修行の要諦を述べています。
ここから読み取れることは、坐禅というよりも、「自己の内に神を見出す」という霊性探索の瞑想であることがわかります。
新渡戸稲造が所属していたキリスト教・クエーカー派の「内なる光」を感じる瞑想と同じになります。
それは、次のような内容です。綱島梁川の実践を知る上で参考になりますし、宗教体験を求める人にとっても学びになると思います。
振り返ってみると、私のかつての宗教的信仰というものは、誰かが作った宗教に基づいて、「神を見た気がする」「神の愛を知った気がする」といった、ぼんやりと形作ったものが多かった。
しかし、深く内面に沈潜するようになってから(おそらく病身となり先を案じるようになったことが大きな理由ではないかと推察)、私は過去の一切を手放して、自ら独立して、自分の最も深い要求から神の声を聴こうとしました。
※このやり方は、キリスト教・クエーカー派の「内なる光」を感じる瞑想と同じでしょう。
その求めは空しくなく、私は自分の深い内側に神がいると感じ、その光明に幾度か心躍るようになりました。
この実践が、毎夜の静座の中身だったと思われます。
そうして「心が澄み切ったかなあと思いきや、突如、大歓喜がわきおこった」という記述は、この静座の積み重ねの中で体験が訪れたことを示しています。
長期にわたって内側を静め、空白を作り続けた時間——それが、あの夜の体験への準備となっていたのだと思います。
宗教体験・一瞥体験をする人には、自己観察、内省、あるいは瞑想、祈りをし続けている人が大変多くいます。
この傾向は、綱島梁川にも見られますので、体験の普遍的な条件を考える上で興味深い事実です。
「予が見神の実験」の反響——明治の青年を揺さぶった告白
以上が綱島梁川の「見神体験(一瞥体験)」です。
1905年に発表された「予が見神の実験」は、明治の日本に大きな反響を巻き起こしました。
国立国会図書館の記録、コトバンク、宗教哲学研究の論文のいずれもが、この文章が当時の読者——とりわけ精神的な煩悶を抱える青年知識層——に強い影響を与えたことを認めています。
なぜこれほどの反響を呼んだのか。
明治末の日本は、急速な近代化・西洋化の中で、伝統的な価値観と新しい知識の間で引き裂かれた青年たちが多くいた時代でした。
「煩悶青年」という言葉がそのまま流行語になるほど、生きる意味や魂の問題を抱えた若者が時代を覆っていたのです。
そうした時代に、梁川の「予が見神の実験」は「生きた宗教体験の告白」として受け止められました。
教義の解説でも信仰の勧誘でもなく、一人の人間が実際に体験したことの誠実な記録——それが当時の青年の魂に直接届いたようです。
研究者の深澤英隆は、この文章が、近代日本で「宗教経験」という概念が広まる一因になったと指摘しています。
つまり「予が見神の実験」は単なる一個人の体験談を超えて、日本における近代的な宗教経験論の出発点の一つとなったわけです。
綱島梁川への批判
綱島梁川の「予が見神の実験」への反響は、賛同一色ではありませんでした。批判もあったようです。
批判の筋は大きく二つあったと考えられます。
一つは「個人的な宗教体験をどこまで普遍的真理として語れるのか」という問いです。
梁川が繰り返し自己点検を強調したのも、こうした批判を予期していたからでしょう。
もう一つは「理性や制度宗教を超えた神秘体験を前面に出すことへの警戒」です。
明治の知識人社会では、学問的・合理的な基準への信頼が高まり、神秘体験をそのまま「真事実」として提示することには、抵抗感を持つ論者も少なくなかったからです。
事実、明治期になると、伝統的な仏教ですら「六道は迷信だ」「輪廻転生は無い」「神通力は妄想だ」という主張が、教養人のみならず仏教者からも言い出されるようになっています。
神秘体験のみならず、宗教体験への疑念や警戒の風潮が高まる風潮でしたので、綱島梁川が慎重になることは非常によくわかります。
事実、手記には、「私は、この見神の体験が根拠のない迷信ではないかと疑い、この体験の後、何度も理性の法廷に訴えて、厳しく批判的に検証しました」と書いていることは、その証拠です。
神秘体験を語りながら、同時に理性の検証に耐えるものとして提示しようとした——この姿勢が、批判をかわしながらも広い読者に届いた理由の一つだったのでしょう。
一瞥体験が起きる条件
なお綱島梁川の手記から「一瞥体験」が起きやすい下地や条件があることもわかってきます。それは、
- 慈しみ、慈悲、隣人愛の実践
- 慈しみ、慈悲、隣人愛を感じる体験
です。こうした下地や条件がありますと、一瞥体験をしやすくなると思います。
実際、綱島梁川は、キリスト教の信仰を通して「それまでも時々、歓喜がわきおこることがあった」あります。
キリスト教的にいえば「隣人愛」。
仏教的にいえば「慈悲」。
隣人愛や慈悲を続けたり、体感があると、一瞥体験・宇宙意識体験をしやすくなります。
ちなみに明治の文筆家でもあり、フェミニストの先駆者「平塚らいてう」も一瞥体験をしています。
レアなんですが、著名人にも一瞥体験をした人はたまに出てきますね。
そんな綱島梁川の「予が見神の実験」より、彼の神秘体験を紹介してみました。
綱島梁川の名言——「予が見神の実験」より
「予が見神の実験」には、梁川の体験と思索から生まれた印象的な言葉が多く残されています。以下に代表的なものをご紹介します。
「真理は簡明也。真理をして真理自らを語らしめよ。言詮の繁重は真理の累也。」
現代語訳:真理はシンプルなものだ。真理には真理自身に語らせよ。言葉を重ねることは、真理の妨げになる。
出典:「予が見神の実験」三度目の体験の記述より
見神体験の後、梁川はどれほど巧みな言葉を持ってきても体験の本質を伝えきれないと悟り、この言葉を記しました。
体験した者が言語化の限界に直面したときの、正直な告白でもあります。言葉よりも体験そのものを重んじた梁川の姿勢が凝縮されています。
「予は如是に神を見たり、如是に神に会へり。否、見たりといひ会へりといふの言葉は、なほ皮相的、外面的にして迚もこの刹那の意識を描尽するに足らず、其は神我の融会也、合一也。」
現代語訳:私はこのように神を見た、神に会った。いや、「見た」「会った」という言葉でさえ、あの刹那の意識を言い尽くすには表面的すぎる。それは神と自分の融合であり、合一だった。
出典:「予が見神の実験」三度目の体験の記述より
見神体験の本質を最も直接的に語った言葉です。「見た」「会った」という主客二元の言葉では表現できない合一の体験——これが梁川の体験の核心でした。
パウロ、パスカル、内村鑑三など古今の体験者が同じような言語化の困難を語っていることと、深く共鳴します。
「我即神となりたる也。」
現代語訳:私すなわち神となったのだ。
出典:「予が見神の実験」三度目の体験の記述より
たった一文でありながら、見神体験の本質を余すところなく表現した言葉です。
インドの「梵我一如(ブラフマンとアートマンの合一)」、禅の「見性」、キリスト教神秘主義の「神との合一」——これらすべてと本質的に重なる体験を、梁川は明治の日本語で簡潔に記しました。
「それ吾が見たる神は、常に吾れと偕に在まして、其の見えざるの手を常に打添へたまふにあらずや。」
現代語訳:私が見た神は、常に私とともにいて、その見えない手を常に添えてくださっているのではないか。
出典:「予が見神の実験」末尾より
手記の最後を締めくくる言葉です。体験は一瞬でしたが、その体験によって得た確信——神は常にともにいる——が、死の影と隣り合わせの病床を生きた梁川の支えとなっていたことが伝わります。
体験の後に続く日常の生き方への静かな指針として、今も読む者の心に響く言葉です。
「この昇天的歓楽を一度も味わわないで世を逝る人の多いのを見て、彼らのために非常に気の毒に感ずる。」
現代語訳:このような天に昇るような歓喜を一度も味わわずに世を去る人が多いのを見て、彼らのために非常に気の毒に感じる。
出典:「予が見神の実験」大歓喜体験の記述より
自分の体験を自慢するのではなく、同じ体験を持てない人々への深い同情として語られている点が、梁川という人物の誠実さを示しています。
内村鑑三の「この昇天的歓楽を一度も味わわないで世を逝る人の多いのを見て、非常に気の毒に感ずる」という言葉と驚くほど似ており、体験した者に共通する普遍的な感覚であることがわかります。
最後に、「予が見神の実験」の最後で締めくくられる「体験の後に」から引用いたします。
私はこのように神を見ました。そしてそこから、天地の間の何物とも換えがたい、最上の栄光ある意識が湧き上がってきました。
「私は神の子である」——という意識が、内側からあふれてきたのです。
私は宇宙の中における自分の本当の位置を自覚しました。私は神ではない。しかし大自然の中の一つの波に過ぎない存在でもない。私は「神の子」であり、天地と人生の営みに関わる神の子です。
ああ、私は神の子である。神の子らしく、神の子にふさわしく生きなければならない——そう感じたとき、新たな義務の世界が私の前に開けるのを感じました。
しかし振り返れば、私は病に倒れ、衰えた身体で、一歩も外に出られない状態にいます。こんな身で何ができるのか——一度はこの矛盾に泣きました。
しかしやがて、強い心の声が聞こえてきました。「この世にいる限り、自分の最善を尽くせ。神を見た者は、最終的には死なない」と。
新たな力が内側から満ちてきました。私が見た神は、常に私とともにいて、その見えない手を常に添えてくださっているのではないでしょうか。
まとめ——綱島梁川「予が見神の実験」が今に伝えるもの
34歳という短い生涯の中で、綱島梁川は三度の神秘体験を経て「予が見神の実験」を著しました。
大歓喜体験、ワンネス体験、そして「我は没して神みづからが現に筆を執りつゝあり」という見神の体験——この三段階の体験は、単なる神秘体験の記録にとどまらず、近代日本における宗教体験論の出発点の一つとなっています。
綱島梁川のこの記録が今日も価値を持つのは、二つの理由があります。
一つ目は体験の誠実さです。
梁川は体験をそのまま信じ込むのではなく、「根拠のない迷信ではないか」と何度も理性の法廷に訴えて検証し続けました。体験した者でなければ書けない言葉と、体験を検証し続けた誠実な姿勢が、この記録に特別な重みを与えています。
二つ目は体験の普遍性です。
「我即神となりたる也」という綱島の言葉は、パウロのダマスコ体験、パスカルの「炎の夜」、内村鑑三の聖霊体験、新渡戸稲造の「父ノ光ヲ見タリ」——時代や宗教を超えた多くの体験者の言葉と、驚くほど重なります。これらはすべて、宗教の枠を超えた普遍的な人間の霊性の記録です。
綱島梁川が最後に記した言葉が印象的です。
「それ吾が見たる神は、常に吾れと偕に在まして、其の見えざるの手を常に打添へたまふにあらずや(私が見た神は、常に私とともにいて、その見えない手を常に添えてくださっているのではないでしょうか。)」——体験は過ぎ去っても、神は常にともにいる。
その確信が、死の影と隣り合わせの病床で書かれた言葉だということが、この記録の深さを示しています。
「予が見神の実験」は、難解な神学書でも特定の宗派の教義書でもありませんね。一人の人間が、病苦の中で神に直接出会い、その体験を誠実に記録した手記です。
だからこそ、明治の煩悶青年の魂を揺さぶり、100年以上を経た今も、彼の手記を発見して読んだ者の心に響くものがあるのだと思います。
予が見神の実験(現代語版)
綱島梁川
この文章は、宗教的な体験の深い人に向けて書いたものではありません。ただ、心から神を求め、宗教的な生き方に踏み込もうとしている多くの友人に届けたくて書きました。
私は今、自分が体験した「見神の実験」——神に直接出会った体験——について語ろうと思います。
これを語ることは、正直なところ、少し気が引けます。しかし私は今、世間的な気遣いや遠慮をすべて捨てて、できる限り誠実に、明確に、自分が見たことを語らずにはいられない使命を感じています。
自分の体験を世間に吹聴したいわけではありません。ただ、自分のような鈍く未熟な者でさえ、このような稀有な体験に与ることができた嬉しさと有難さを抑えきれないのです。
そして何より——神に憧れながらもその声を聴けずにいる人、誰にも言えない心の苦しみに泣いている人、迷っている人、悩んでいる人、人生の問題につまずいて深く傷ついている人——そうしたすべての友人たちに、私が体験したことをありのままに分かち伝えたいのです。どうか天もご覧ください。私は今、この一つの大切な知らせを世に伝えるためにここに立っています。
自分の体験をそのまま世に伝えるということ——これはもともと、きわめて難しいことです。
ああ、私は一度神を見てから、この大きな出来事を世に伝えたいという思いが日ごとに強くなるばかりです。しかしどうやって伝えればいいのか、その手段がまったく見当たりません。
なぜなら、私が体験したことは、あまりにも言葉や思想の届かない次元にあるからです。人間の言葉や概念では、その神秘的な体験の万分の一すら伝えられないのではないか——そう思うたびに、私は何度もためらい、何度も気力を失いました。
古人が自分の体験について語るとき、読む者をしばしば霧の中に迷わせてしまう理由も、今ならよくわかります。心血を尽くして体験の内容を説こうとすると、時に輝かしい文章が生まれることもあります。しかし言葉が増えれば増えるほど、かえって指し示すべき月から遠ざかってしまう——そういうことが起きるのです。
それでも、私はこの使命を投げ出すわけにはいきません。神は私の残り少ない生涯に意味を持たせようとして、この体験を私に与えてくださったのではないか。これを少しでも世に伝えることが、私に与えられた大切な使命ではないか。
真理は言葉で完全には伝えられない——それはそうです。しかし、私が感じたことのすべてを、飾らない言葉で書き記せば、あの体験の、かすかな光の端くらいは伝えられるかもしれない。その微かな香りくらいは届けられるかもしれない。できるかどうかは神に委ねて、私はただ見たことを誠実に語るだけです。
三度の体験
神の現前、あるいは魂の高揚と光明——こうした体験は、これまでも折に触れて何度か経験していました。しかし「これは忘れられない」と思えるほど鮮烈なものは、ほとんどありませんでした。
そうした体験が訪れたのは、昨年(明治37年)の夏以降のことです。昨年の一年間は、私の宗教的な生涯において「光明の時代」「啓示の時代」と呼べるほどの一年でした。不思議なことに、この一年で三度も、これまでに経験したことのない稀有な光明に出会うことができたのです。その最後のものが、最も驚くべき体験でした。
第一の体験——大歓喜(明治37年7月)
最初の体験は、昨年7月のある夜半のことでした(日付は忘れてしまいました)。
私は病のために、毎晩深夜に約一時間、床の上でただ静かに座る習慣を続けていました。その夜も、いつものように目を覚まして床に座りました。
四方は静まり返り、澄み渡った星夜の空のように、私の心には一切の曇りもなく、冴えに冴えわたっていました。
そのとき、かすかにおぼろげに、神に帰依して酔いしれるような歓喜が、心の奥からそっと溢れ出てきました。そしてやがてゆっくりと、意識全体がその歓喜に満たされていきました。
透き通っていながら充実しているこの特別な意識——この世の歓喜とは比べようもない、静かで淋しくありながらも孤独ではない、類いまれな歓喜は、十五分ほど続いたかと思うと、ほのかに消えていきました。
(この体験は、『病間録』の「宗教上の光耀」という一篇に記したものです。以前にも似たような体験がないわけではありませんでしたが、この夜のほど純粋で充実したものはありませんでした。)
私はまだ、あの夜の体験の深さを測り尽くすことができていません。今もときおり、あの夜の心の状態をおぼろげに思い出しては、地上にいながら天上の生活の面影を偲ぶような気持ちになります。
第二の体験——神とともに見たワンネス体験(明治37年9月)
もう一つは、昨年9月末のことです。
久しぶりに、家からほど近い銭湯に行こうとして、家人に支えられながら門を出ました。折しも晴れ渡った秋空の下、町はずれの林や山々が遠く夕陽に染まっていました。
その光景をぼんやり眺めていたとき、突然——「私は天地の神とともに、同時に、この目の前の光景を見ている」という意識が、稲妻のように打ち込まれてきたのです。
一瞬の体験でした。しかし振り返っても、これは決して幻覚や妄想の類いではありません。理性を超えた、確かな啓示として直覚されたものです。今もあの瞬間を思い返すと、「私は神とともに見ていた」というあの刹那の意識を、否定する言葉が見つかりません。
第三の体験——見神の体験(明治37年11月)
最後に語ろうとするのが、先に「驚絶駭絶の体験」と言ったものです。これまで私が神の現前について経験したものの中で、これほど新鮮で、鮮烈で、鋭く、魂に深く刺さったものはないと思えるほどのものです。
今もこれを心の中に呼び起こすことができ、そのたびにその超越的な偉大さに驚き、揺るぎない真理であることをますます確かめています。
当時の様子を、ある友人への手紙の形で記しておきます。
突然のことで恐縮ですが、以前お話しした、あの夜の体験のことです。あの体験以来、驚きと喜びの余韻の中で、一種のインスピレーションのようなものが続いており、身体にも少なからず影響が出ています。
あの体験があってから、神への愛慕がいっそう深くなりました。「どうすればこの感覚を他の人に伝えられるか」——それがこの頃の唯一の問いです。
一方では、この感覚を他の人に知ってもらいたいという気持ちがあります。しかし同時に、まだこの感覚に届いていない多くの友人たち、届こうとして苦しんでいる多くの人たちへの、真摯で厳粛な同情心も湧いてきます。この体験を通して、私は少しだけ、お釈迦様の大いなる慈悲や、キリストの大いなる愛を味わえた気がしています。
今年の中で私は、この体験を含めて三度ほど、こうした触発の機会を得ることができました。前の二つの体験も、今思い出すだけで心躍る光明であり慰めです。しかしこの三度目の体験は、最も神秘的で、最も明瞭で、最も深烈なものでした。
あの夜は、物静かな夜でした。一灯の下で、私は筆を取って何かを書いていました。
突然——はっと思った瞬間、今まで「自分」だったものが「自分でない自分」になりました。筆が動くそのまま、墨が紙の上を滑るそのまま、すべての一つひとつが超絶的な不思議として目の前に輝いていました。
その時間はほんの数分に過ぎなかったと思います。しかしその短い時間の中で、無限の深さを持った静寂の底から、堂々と現れ出た大いなる霊的な生命とはたと出会ったような——そのShocking(衝撃的)な驚愕と驚喜の意識は、とても言葉では言い尽くせません。ただあなたの直覚に訴えて察していただくしかありません。
「批評的・学究的な精神を持つ自分に、このような東洋的・中世紀的ともいえる神秘的体験が起きるとは、あり得ないことだ」と思われるかもしれません。私自身も、その後二、三日は、狐にでも化かされたような気持ちがしていました。しかし時が経つにつれ、あの体験はますます明確・確実になっていき、その驚くべき事実は、壊れることのない確かな真理として光を放ち続けています。今やもはや、一点も動かすことのできない、疑いようのない心霊上の事実となり、力となっています。
これが、昨年11月のある夜、十一時頃に起きた出来事です。
この体験については、もう言うことはないかもしれません。どれほど巧みな言葉を持ってきても、ここに書いた以上のことを説き明かせるとは思えないからです。真理はシンプルです。真理には真理自身に語らせるべきです。言葉を重ねることは、真理の妨げになります。
ただ、一つ補足しておきたいことがあります。私が「今までの自分が自分でない自分になった」「霊的な生命とはたと出会った」と書いた言葉が、少し大雑把な表現ではないかと読者に思われるかもしれないからです。
改めて、あの瞬間を最も厳密に表現するなら——「今まで現実の自分として筆を取っていた自分が、はっと思う刹那に、天地の奥にある実在そのものになった」「自分は消えて、神自らが筆を取っていると感じた」——そう言うべきかもしれません。
これが私が体験した、超絶・驚絶・駭絶の事実として意識した刹那の、最も正確な表現です。これ以上の言葉を、私は知りません。
私はこのように神を見た。このように神に会った。
いや——「見た」「会った」という言葉でさえ、あの刹那の意識を言い尽くすには表面的すぎます。それは神と自分の融合であり、合一でした。その刹那に、私はほとんど神の実在の中に溶け込んでいたのです。「我すなわち神となった」——そういう体験でした。
感謝します。この驚絶・駭絶の意識を、私は直接・端的に、神から得ました。過去の誰かの証言を媒介としたものでも、誰かの意識に依り添ったものでもありません。
「見」と「信」と「行」について
振り返ってみると、私のかつての宗教的信仰というものは、自分自身の直接体験から来たものは少なく、キリストや他の先覚者の人格を信じ、あるいはそれらの偉大な意識を拠り所にして、ぼんやりと形作ったものが多かったと思います。半ばは他者の声に和し、他者の意識を借りて、「神を見た気がする」「神の愛を知った気がする」と許していたのです。
しかし、深く内面に沈潜するようになってから、私は過去の一切を手放して、自ら独立に、自分の最も深い要求から神の声を聴こうとしました。その求めは空しくなく、私は自分の深い内側に神がいると感じ、その光明に幾度か心躍るようになりました。
「見る」「信じる」「行じる」——これが宗教生活における三つの大きな柱です。この三つは互いに補い合うもので、どれが上でどれが下とは言えません。
しかし私は、自分の体験に基づいて、「見る」ということに、これまで以上の重要な意味を与えたいと思います。
人はともすると「見る」と「信じる」を対立させて、「信じる」ことに宗教上の最大の重みを置きがちです。しかし「見る」ことの輝かしい意義を語る人は少ない。
私は確信しています——偉大な信念の根底には、常に偉大な「見神」がある、と。本当に神を「見ずして」本当に神を「信じる」ことはできないのです。
キリストの信仰は、常に内に神を見、神の声を聴いたことから生まれました。パウロの信仰は、ダマスコへの道での驚くべき天の光との出会いから湧き出ました。見ることなき信仰は盲信となり、頑なな信仰となり、他者に依存した信仰となってしまいます。
「見ずして信じる者は幸いなり」という言葉もあります。しかしそれは真理の一面に過ぎません。見て信じる者は、さらに幸いである——私はそう言いたいのです。
体験の検証
私は、この見神の体験が根拠のない迷信ではないかと疑い、この体験の後、何度も理性の法廷に訴えて、厳しく批判的に検証しました。しかし理性は、この体験を認める以外に何も言えないと判断しました。
また、この体験が脳細胞の偶然の生み出した幻覚ではないかと危ぶんで、心を虚にして何度もこれを心の中に再現し、前から後ろから、上下左右から、もれなく正視・透視しました。そしてこの体験が、確かに宇宙の根底から来たものであることを確かめました。
さらに、万が一にも自分を欺いていないかと恐れて、その後も何度も思い起こし、できる限り第三者の目で仔細に点検しました。しかし思い起こすたびに、私はますますその驚くべき事実を見るばかりです。
これは到底言葉では言い表せない、稀有無類の意識です。今やもはや、一点の疑いも入れようのない真実となっています。
体験の後に
ああ——私が見たこと、感じたこと、すべてこのようなものです。あるいは自分のことを語るのに急ぎすぎた箇所もあったかもしれません。言葉が多すぎて意味が曖昧になった箇所もあったかもしれません。いずれも私の筆の至らなさとしてご容赦ください。
私はこのように神を見ました。そしてそこから、天地の間の何物とも換えがたい、最上の栄光ある意識が湧き上がってきました。
「私は神の子である」——という意識が、内側からあふれてきたのです。
私は宇宙の中における自分の本当の位置を自覚しました。私は神ではない。しかし大自然の中の一つの波に過ぎない存在でもない。私は「神の子」であり、天地と人生の営みに関わる神の子です。
なんと高貴な自覚でしょう。この一つの自覚の中に、救いも、解脱も、光明も、平安も、活動も、そして人生のあらゆる意味のすべてが凝縮されているのではないでしょうか。
ああ、私は神の子である。神の子らしく、神の子にふさわしく生きなければならない——そう感じたとき、新たな義務の世界が私の前に開けるのを感じました。
しかし振り返れば、私は病に倒れ、衰えた身体で、一歩も外に出られない状態にいます。こんな身で何ができるのか——一度はこの矛盾に泣きました。
しかしやがて、強い心の声が聞こえてきました。「この世にいる限り、自分の最善を尽くせ。神を見た者は、最終的には死なない」と。
新たな力が内側から満ちてきました。私が見た神は、常に私とともにいて、その見えない手を常に添えてくださっているのではないでしょうか。
(明治三十八年五月)


