目次 非表示
- 内村鑑三とは何をした人?
- 内村鑑三の生い立ちと札幌農学校
- 内村鑑三のアメリカ留学と信仰の深化
- 内村鑑三の不敬事件(1891年)
- 「二つのJ」——日本とイエスへの愛
- 内村鑑三の無教会主義の提唱(1900年)
- 内村鑑三は聖霊体験をして隣人愛に目覚めた
- 内村鑑三著『聖書之研究』に聖霊体験を詳説
- 書籍『内村鑑三信仰著作全集(9)神 聖霊 三位一体』
- 聖霊体験とはハートの覚醒
- キリスト教ではハートの覚醒を目指す
- 内村鑑三の非戦論(1903年)——聖書の絶対化が生んだ信念と対立
- 内村鑑三の再臨運動(1917年)——宗教体験者が陥りやすい教義への傾倒と、その危うさ
- 内村鑑三の晩年と死
- 内村鑑三の恩師と教え子|影響を与え受けた人々
- 内村鑑三の名言|後世への最大遺物・二つのJほか
- まとめ——内村鑑三が今に伝えるもの
内村鑑三とは何をした人?
内村鑑三(うちむら かんぞう、1861〜1930)。

かつて教科書で名前を見たことがある方は多いと思います。しかし「何をした人か」と問われると、意外と答えにくい——そんな人物ではないでしょうか。
内村鑑三はキリスト教思想家・評論家
簡単にいえば、内村鑑三とは、明治・大正・昭和初期を生きた日本を代表するキリスト教思想家・評論家です。「無教会主義」の提唱者として知られています。
聖書講義と著作・講演活動を通じて多くの人に影響を与えました。
しかし内村鑑三という人物を「キリスト教思想家」という一言で片づけてしまうと、この人物の本質を見失います。キリスト教信仰者・実践者としての側面もしっかりとあるからです。
真剣なキリスト教信仰者としての内村鑑三
内村は1891年、信仰上の理由から教育勅語への拝礼を拒否して「不敬事件」を起こし、教職を追放され、社会的に葬られるほどの激しい非難を浴びています。
また日露戦争開戦前には「戦争廃止論」を唱え、当時としては驚天動地となる提唱をし、これまた強い批判を受けます。しかし信念を貫く。
信仰と社会との衝突などから、折り合いを付けるために「二つのJ」——「日本を愛すること(Japan)」と「イエスを愛すること(Jesus)」——を生涯の旗印とし、そこからさらに進んで、制度や形式に縛られない「無教会主義」を切り開いた人物でもありました。
宗教体験をした内村鑑三
そして何より、この記事で最も伝えたいことがあります。
それは、内村鑑三は、聖霊体験——神の愛を直接体験するという深い宗教体験——をした人物だったということ。
「こんなよいもの(聖霊体験)は全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない」——内村はそう書き残しています。
金も名誉も地位も、すべてがどうでもよくなるほどの充実感と愛の体験。宗教体験。これが内村の思想と行動の根底にあったものです。
内村が体験したこの霊的な側面は、今日の歴史教育の中でほとんど触れられることがありません。しかしそれこそが、内村鑑三という人物を読み解く最も重要な鍵だと思っています。
この記事では、内村鑑三の生涯・思想・名言をたどりながら、知られざる内村の本質に迫ります。
内村鑑三の生い立ちと札幌農学校
内村鑑三は、1861年に高崎藩(現在の群馬県高崎市)の藩士(大名に仕えた家臣、今風にいえば上級公務員)の家に生まれました。
1877年の16歳の年に、札幌農学校(現・北海道大学)に入学。ここで新渡戸稲造・宮部金吾と出会い、二人は生涯の友となります。
札幌農学校では、ウィリアム・スミス・クラーク博士が育てた一期生たちの信仰の影響を受け、キリスト教に入信します。ここで出会ったキリスト教が、内村の生涯を彩ります。

在学中には新渡戸稲造らと「日本語を話したら五銭の罰金」というルールを作り、日常会話をすべて英語で行うほど熱心に英語を学んだというエピソードも残っています。
新渡戸稲造との出会い
新渡戸稲造とは、東京英語学校の頃からの友人でした。その友情は生涯にわたって続いたようです。
ちなみに、この記事のテーマとなる宗教体験を、内村鑑三は「聖霊体験」を、新渡戸稲造は「見神体験」を、後にすることになります。
親友だった二人とも宗教体験をしているのは、大変興味深いことです。
内村鑑三のアメリカ留学と信仰の深化
札幌農学校を卒業した後、内村は知的障害者施設で働きますが、1884年(23才)にアメリカへ渡ります。
最初の妻との離婚
折しもこの年(1884年)は妻(浅田タケ)と離婚。内村にとって離婚は精神的に大きな打撃であり、自らの不完全さを突きつけられる経験だったといいます。
ちなみに、キリスト教では離婚や婚姻に対して、
- カトリック
離婚は原則不可能。婚姻は、神の恵みを表す重要な7つの「しるし(秘跡、サクラメント)」の一つであり、婚姻は神が結びつけたことなので、人間は解くことができないという考え。 - プロテスタント
婚姻は神聖な契約だが、秘跡(神がもたらした重要な「しるし」ではないため、離婚は可能であり許される。
というとらえ方をしています。内村は「プロテスタント」であったため、離婚は罪にはなりません。
けれども明治期においては、日本の封建的な家制度はまだ根強く、しかもキリスト教カトリックの教えも知っていたでしょうから、内村にとって離婚は相当に堪えたことがうかがえます。
内村はこの離婚を機に、キリスト教をより深く信仰するために「神の義(真実に正しいこと)」を追い求めるようになります。
離婚による自己反省と、真のキリスト教、しかも日本におけるキリスト教信仰のあり方を模索するために、内村はこの年、単身でアメリカへ渡ります。
アマースト大学ではジュリアス・H・シーリー学長と出会い、キリスト教徒としての精神的な土台を深めます。
キリスト教国「アメリカ」の実態と失望
しかし留学中、内村はアメリカにおけるキリスト教の実態を垣間見て失望します。
内村は経済的な困窮から、ペンシルベニア州の養護院で看護人として労働。そこには白人社会からの根強い人種偏見がみられました。
障がい児たちからも内村は、「ジャップ」と罵られます。自分がサポートしようとしている彼らからも罵られる。その侮蔑の言葉に耐える生活を送ります。
またアメリカの教会が組織的であり、本質的な信仰よりも、形式や人種的な偏見を優先するキリスト教社会に何度も直面し、さらなる失望を重ねます。
日本的なキリスト教信仰へ
結局、内村鑑三は、自分の脳内で理想化していた「キリスト教国アメリカ」というビジョンを抱いていたことに気がつきます。
現実のアメリカでは差別が横行し、教会制度に縛り付けられた形骸化した宗教だったことを目の当たりにして、アメリカのキリスト教に失望。
このときのアメリカ体験が契機となり、「本当のキリスト教」を模索するようになります。
後に提唱される「2つのJ」「無教会主義」に見出すことができる、聖書そのものと向き合う簡素で素朴な「日本的なキリスト信仰」の原型が、アメリカ留学中に形作られたことは容易に想像がつきます。
内村は、失望の多かったアメリカ留学を3年半で終え、日本に帰国。その後は、第一高等中学校(現在の東京大学)の講師となります。
内村鑑三の不敬事件(1891年)
内村鑑三の生涯で最も知られるエピソードの一つが、1891年(30才)の不敬事件です。
第一高等中学校(東京大学)での教育勅語奉読式において、内村はキリスト者としての信念から、天皇の署名がある文書(教育勅語)への拝礼を拒否します。
この背景には、キリスト教の信仰においては、父・イエス・聖霊以外を礼拝することは禁止し、もし他のものを礼拝すれば偶像崇拝になるという教えがありました。
内村は、キリスト者として「教育勅語を奉拝」することは偶像崇拝にあたるとして、最後まで正当性を見出すことができなかったようです。
これにより内村は、「不敬」として猛烈な非難を浴び、教職を追われることになります。
当時の常識からすれば、天皇を尊崇し礼拝することは当たり前なことです。現代では許されることであったとしても、当時は許されない行為。
内村は社会的な激しいバッシングを受け、体調を崩します。しかも二度目の妻とも23才で離婚するなど、人生の辛酸をなめ、どん底を経験します。
しかしこの苦難の体験が、のちの「二つのJ(Japan and Jesus)」の考えと信仰の深化につながっていきます。
「二つのJ」——日本とイエスへの愛
内村鑑三が生涯を通じて掲げたのが「二つのJ(Japan and Jesus)」という言葉。
日本を愛すること(Japan)と、イエスを愛すること(Jesus)——この二つを両立させながら生きることを、内村は自らの使命としました。
キリスト教の信仰と愛国心を対立させるのではなく、むしろキリスト者だからこそ日本を深く愛し、日本のために尽くすという姿勢は、当時としても独自のものでした。
アメリカへの幻滅と不敬事件
「二つのJ(Japan and Jesus)」は、内村が札幌農学校時代のときに考えついた思想だといいます。
その後、内村の辛酸をなめる人生経験が重なったことも大きかったでしょう。
中でもキリスト教が実践される理想の国アメリカは、差別と教会制度に縛られた墜ちた宗教であることを目の当たりにして失望したことは大きかったでしょう。
また、教育勅語への礼拝拒否による「不敬」と「教職追放」という憂き目に遭ったこと。
この2つの苦しい体験を経て、「二つのJ(Japan and Jesus)」が明確な思想となって形作られたことは容易に想像がつきます。
「二つのJ」は日本型キリスト教のモデル
内村鑑三は、アメリカ流のキリスト教信仰ではなく、キリスト教の大本となる「イエス・キリスト」を信仰のよりどころとすることにウェイトを置くようになります。
またアメリカではなく祖国「日本」を敬い、また天皇への尊崇との折り合いを付けるために、「日本を愛する」という形を取ることで、天皇礼拝を愛国心へと昇華させます。
これによって「二つのJ(Japan and Jesus)」——日本を愛すること(Japan)と、イエスを愛すること(Jesus)を明確化。
「二つのJ」は、やがて「無教会主義」へと進展していきます。
内村鑑三の無教会主義の提唱(1900年)
内村鑑三の思想の核心は「無教会主義」です。既存の教会や組織、教義の形式に縛られず、聖書と個人の信仰があれば教会は不要であるという立場です。
内村は39才の年となる1900年(明治33年)に創刊した『聖書之研究』と、翌年の1901年(明治34年)に創刊した雑誌『無教会』で、無教会主義を唱え、無教会の立場から聖書講義と信仰の伝道の狼煙を上げます。
聖書研究こそが真の教会とする「無教会主義」
ちなみに無教会主義は決して反キリスト教ではありません。むしろ、制度や形式を超えて、イエスと直接つながる純粋な信仰を求めた姿勢になります。
無教会主義では、教会(建物)、牧師、洗礼・聖餐といった制度や儀式を否定排除し、聖書研究を基盤とする「真の教会」を目指すあり方をいいます。
キリスト教プロテスタントでは、聖書、信仰、神の恵み、イエス・キリスト、神の栄光を重視します。内村は、このうち「聖書」を重視する立場を採ったのだと思います。
これは内村がアメリカへ留学した際に直面した「本場アメリカにおけるキリスト教信仰の実態と失望」に由来しているのでしょう。
また、明治時代の日本は、西洋の宣教団体から経済的・教義的な影響を受けたものの、日本には天皇が存在しているため、欧米から独立した「日本的なキリスト教」の必要性を痛感したことも根底にあるのでしょう。
無教会主義のインパクト
ちなみにキリスト教において教会を否定することは驚天動地のこととして受け止められます。
なぜなら、キリスト教においては「教会」とは、「イエス・キリストのからだ」であり、「聖霊」によって作られた霊的共同体であり、神の恵みを授かることができる唯一の場としているからです。
ですので、教会に集って、神の愛と福音を学ぶことは、クリスチャンにとって極めて重要。この教会を否定し、「真の教会は聖書」という内村の「無教会主義」は、キリスト教の伝統からいってもかなり飛躍した教えになります。
キリスト教の現実を喝破した末の「無教会主義」
しかし内村が「無教会主義」を唱えた背景には、23才のときに留学したアメリカにおけるキリスト教の実態に触れて失望したことがあったと思います。
結局、キリスト教による建国を目指そうとしたアメリカであっても、既成教会や宣教団体に依存してしまうと、キリスト教も形骸化して堕落してしまう。教会の持つ本来の意味や機能は、現実では形骸化し、そこにはキリストの精神も聖霊も存在していない。
そうではなくシンプルに聖書のみに立脚し、日常生活の場における個人または少人数の聖書研究を実践することこそ、キリストの精神に至り、聖霊からの恵みも受けることができる。内村はこれを喝破。
アメリカの実態と信仰の本質を見抜いたからこそ、内村は「無教会主義」の立場を採るに至ったのであると推察できます。
後述しますが、「無教会主義」を提唱した最大の理由は、内村鑑三の「聖霊体験」——神の愛を如実に感じる宗教体験——があったからと推察しています。
内村の聖霊体験こそが、無教会主義の秘密を解く鍵であると考えています。
無教会主義とクエーカー派の類似点
ところで内村の無教会主義は、新渡戸稲造がクエーカー派に惹かれたことと、根底で同じものを宿しています。
クエーカー派も、牧師、儀式を排除し、シンプルに瞑想(黙祷)をして神に直接触れて「内なる光」を感じます。
内村鑑三の「無教会主義」も、新渡戸が帰心した「クエーカー派」も、制度的なキリスト教を超えて、神との直接体験を求める——二人の友は、それぞれ異なる形で同じ方向を向いていたことがわかります。
しかもどちらも札幌農学校で洗礼を受けた二人です。不思議な二人の因縁を感じさせます。
内村鑑三の陥穽
なお内村の聖書中心のあり方は、晩年の「再臨運動」へとつながっていくことになります。聖書のみとする信仰は、聖書を無謬(むびゅう)とする考えに至ります。
聖書に限りませんが、仏典にしろ思想にしろ、「これこそが絶対に正しく完璧」とする受け止め方(認知)は、熱心な人に見られる傾向です。
しかし、この認知そもののが危うさを招くことが多くなります。内村にとっての危うさは、晩年の「再臨運動」にみられます。
内村鑑三は聖霊体験をして隣人愛に目覚めた
長々と内村鑑三の経歴をたどってきました。何故、長々とみてきたかといえば、内村鑑三は「聖霊体験(せいれい-たいけん)」という、キリスト教では重要な宗教体験をしているからです。
内村鑑三は、1900年前の少し前頃(30代後半)に、「聖霊体験」をしています。
聖霊体験とは?
「聖霊体験」とはキリスト教で使われている宗教体験を表す言葉です。聖霊(神の御使いの霊)に満たされて、「神の愛」や「神の力」を感じる「直接的な体験」をいいます。わかりやすくいいますと、「隣人愛」に心底目覚めることです。
聖霊体験をすると、普遍的な人類愛(をも超えたまさに神の愛としかいいようのない強烈なエネルギー)と、強い喜び(歓喜)、自分が神に救われたという絶対的な安堵感をリアルに感じます。まさに正真正銘の「隣人愛」です。
また、涙があふれ出て、全身が燃えるような炎に包まれる(炎が全身を駆け巡る)感じを受けたり、人によっては身体が震えるかのように振動するのを感じます。
あるいは使徒行伝2章にあるペンテコステ(聖霊降臨)のような「異言」を唱える人もいます。
これらは聖霊(神の御使い)によってもたらされた体験(信仰のしるし)として、キリスト教の文脈においては重要視されます。
内村鑑三はなぜ聖霊体験をしたのか
内村鑑三が聖霊体験をした理由は、以下の3つに集約できると思います。
- 悔い改め
数度にわたる離婚と不敬に問われ、自分の罪を悔い改めて、心・魂を浄めることに一層取り組んだ。 - 神を求める
神の手足となることを願い、聖霊を求めてひたすら祈り、真のキリスト教を求めた。 - 明け渡し
辛酸をなめるかのような人生と数々の試練に遭いながらも、自分の感情や考えを捨て、神に全てを委ねる生き方を貫いたこと。
聖霊体験(宗教体験)をする人に見られる実践を、内村鑑三も行っていたことが浮き上がります。
内村鑑三の聖霊体験が無教会主義をもたらした
内村鑑三は、30代後半に聖霊体験を体験し、この体験が決定的な引き金となって、「無教会主義」へと進んだものと思われます。
なぜなら、キリスト教では、聖霊体験は自分のみに授けられた神からの恵み・恩寵としないで、神の愛を知り得た「イエス・キリストの証人」の使命として、「神のために働く・生きる」ようになり、また推奨されているからですね。
聖霊体験をすることで、神への確信が決定的になり、牧師や神父になる人も少なくありません。
内村鑑三は、その使命を「無教会主義」というキリスト教の本質に迫った信仰スタイルへと、回帰しようとしたのではないかと思います。
内村鑑三著『聖書之研究』に聖霊体験を詳説
内村鑑三が聖霊体験(ハートの目覚め体験)をしたことは、雑誌などにくわしく述べられるようになります。
内村は、39才の年の明治33年(1900年)に日本初のキリスト教雑誌となる『聖書之研究』を発刊します。
「聖書之研究」には、内村鑑三が聖霊の導きによって愛に目覚め感得したその心境を、生気溌溂(せいきはつらつ)として著しています。
手記を読みますと、神の愛を体験し、神さまからの恩寵を受けて、生涯、神の愛を感じ続けた方だったことがわかります。
なお『聖書之研究』では、内村鑑三の「無教会(無教会キリスト教)」というスタンスも表明。どこにも所属しない立ち位置を明らかにしたようです。
キリスト教は分派が非常に多く、明治時代には、メソヂスト派、改革派、長老派などのプロテスタント教会が広まり、中でもメソヂスト派が日本には多かったようです。事実、内村鑑三も札幌農学校時代に、メソヂスト派のハリスから洗礼を受けています。
書籍『内村鑑三信仰著作全集(9)神 聖霊 三位一体』
内村鑑三の聖霊体験(隣人愛、慈悲の体得体験)は、「内村鑑三信仰著作全集(9)神 聖霊 三位一体」という書籍にもくわしく載っています。
たとえば、次のような記述があります。引用します。
聖霊を受けし時の感覚(p168)
聖霊を受けし時の感覚はこれである。
すなわち、こんなよいものは全世界にない。
これさえあれば余はなんにもいらない。
金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。
家庭もいらない(もし神の聖意ならば)。
事業もいらない。
成功もほしくない(もし神の聖意ならば)。
伝道に従事することができなくともよい(もし神の聖意ならば)。
なんにもいらない。
ただこれ(聖霊)を永久に持っておりたい。
これに去られてはたまらない。
どうにかしてこれを永久にしておかなければならない。
ああ、平和、平康、安心、聖書に書いてある「人の思いに過ぐる平和」とはこのことであろう。
わが過去はすべて忘れられ、わが未来は希望満々とたり。
人生の意味はわかり、ことに苦痛問題は美事に解釈され、天は晴れ、地は動かず、木も草も、獣も鳥も、日も月も星も、みなわれに同情を寄するように思われる。
これがもし天国でないならば何が天国であるか。天よりくだる新しきエルサレムを、われはこの世においえ見ることができて、感謝する。
こんなうれしい事、こんなありがたい事を、余は余のこの世の生涯において実験しようとは思わなかった。
ああ今より後、永久続けてかかる歓喜にあずかりたいとは、あるいは望外の望みであるかも知らない。
しかし、よし一分間でもよい、一分間なりと、この世から天国をのぞいたのである。この一分間を得んがために、余の生すべての苦痛があったとするも、余は悔いない。
余はただこの昇天的歓楽を一度も味わわないで世を逝(さ)る人の多いのを見て、彼らのために非常に気の毒に感ずる。
余は今より後、余の死ぬるまでにかかる経験をなお一度も持つことができずとも、深く神に感謝すべきである。
内村鑑三のほとばしる思い
内村鑑三信仰著作全集(9)神 聖霊 三位一体にある『聖霊を受けし時の感覚』からの引用ですが、内村鑑三のほとばしる思いが、文章からも伝わってくるかと思います。
魂が震えるかのようなこのほとばしりこそ「愛のエネルギー」ですね。
感情とか気持ちではありません。エネルギーです。
聖霊体験した者の心境。ハートに目覚めた者の心境。
内村鑑三が、神の恩寵を受け、聖霊のはたらきによって愛に目覚めていたことは、著書のいたるところに書いてあります。
内村鑑三の文章を読んでいると、明らかに体験した人特有の表現であることがわかり、感銘を受けます。
聖霊体験とはハートの覚醒
聖霊体験(ハートの目覚め体験)もそうですが、真我体験をすると、人によっては絶対的に救われた安堵感が生じます。
で、これがキリスト教における「救済」だったことがわかり、合点したものです。
キリスト教では聖霊体験といっていますが、仏教、ヨーガ、アドヴァイタ、スピリチュアルなどでは「ハートの覚醒」「慈悲の開眼」といっています。
エネルギー体験です。
聖霊体験はキリスト教特有の宗教体験ではない
聖霊体験はキリスト教における宗教体験を表す言葉ですが、仏教(慈悲の体験)やスピリチュアル(ハートの目覚め体験)でも同様の体験があります。
決してキリスト教特有の宗教体験ではないんですね。
信仰に関係なく世界中で起きています。
聖霊体験とは、わかりやすくいいますと、「ハートの目覚め体験」といえます。キリスト教ではハートの目覚めを「聖霊体験(せいれいたいけん)」といっていますね。
で、内村鑑三は、これを如実に体験されています。
キリスト教ではハートの覚醒を目指す
キリスト教では、祈りと聖霊体験によって、ハートの次元に開眼していくことを目指しています。キリスト教の信仰とは、愛に目覚めること。
このことを、神からの恩寵、神の義、聖霊によるはたらきなどといった言い方をしています。
内村鑑三さんもそうですが、キリスト教の信仰と実践を通して、深い愛に目覚めている方々も少なからずいらっしゃいます。
プレゼンスとハートへの開眼
キリスト教の信仰は参考になります。
私としては、瞑想をおすすめしています。
まずは知性の飛躍となる「プレゼンス(名色分離智)」への開眼。そうして次に「ハート(慈悲)」の覚醒。胸の真ん中から慈しみのエネルギーがほとばしるようになります。
このほかにもありますが、まずはこの二つ。
智慧と慈悲。
プレゼンスとハート。
ハートの覚醒だけでも、内村鑑三の手記に似た体験をされると思います。
慈悲による11の効果効能が驚異的!~パーリ仏典 増支部経典 十一集 第二臆念品 十六「慈」
一瞥体験を聖霊体験として受け入れるキリスト教
キリスト教には、一瞥体験や覚醒体験を「聖霊体験」として受け止め理解する文脈があります。
これは仏教(原始仏教)にはありません。おそらく仏教は「悟り」が目的ですので、文脈が異なるんだと思います。もちろん仏教も「慈悲」をうたいますが、どこか「おまけ」のような扱いです。
しかしキリスト教は、仏教がおまけとしている「愛」にフォーカスし、その感得体現を目指しています。
で、「愛」はやはり大事です。特に社会生活を送る場合は、必須の心といって過言ではないと思います。
内村鑑三の手記にもありますが、愛に目覚めると認知も肯定的になり、ネガティブなことも、それまでと比べて好意的に受け止められるようになります。
愛は尊い。素晴らしい。必須の心でしょう。
今回、このことを発見し、気づいたことは大きな収穫でした。キリスト教への理解が、これからの歩みに役立ちます。
内村鑑三の非戦論(1903年)——聖書の絶対化が生んだ信念と対立
聖霊体験をした内村鑑三ですが、無教会主義を表明したその後の歩みもみてまいりたいと思います。
内村は、雑誌『聖書之研究』を1900年(39才)に発行してから、戦争に対する考えも変わります。
日清戦争が始まった当初は、戦争を支持をしていましたが、戦争の惨禍を目の当たりにして考えを改めます。
そうして、日露戦争開戦前の1903年(42才)に、大衆新聞である万朝報(よろずちょうほう)へ「戦争廃止論」を寄稿し、非戦論を唱えます。
内村は、マタイの福音書26章52節「剣を採る者は剣で滅びる」に基づいて、敵を愛し殺人を拒否する「戦争廃止論」を掲げます。
大変強い批判を受けながらも、内村はここでも信念を曲げませんでした。
内村の非戦論は当時、大きな反発を招きましたが、悲惨な戦争を経験した後に、その正当性が再評価されたといいます。
正義を掲げる本当の動機
非戦論・戦争廃止論は、30才に起きた天皇を礼拝するかどうかを問う「不敬問題」とは事情が異なります。戦争は、人命を失わせる大悪罪そのものであるため、戦争はやはり許容できない。
人道的な見地から政府の政策を厳しく批判。より高い視座から日本を愛する、それが非戦論、戦争廃止論。
「二つのJ(Japan and Jesus)」——日本を愛し、イエスを愛する——という内村の信念から生まれた姿勢だったのでしょう。
けれども、内村は本当に人道的な見地から非戦論・戦争廃止論を抱くようになったのか。幾ばくかの疑問も出てきます。
聖書の絶対化が生んだ信念と対立
内村の非戦論は、結果的に見れば正しく、戦争の悲惨さは歴史が証明しています。
けれども、もしかするとキリスト教の教義的な理由、つまり「聖書に書かれているから絶対に正しい」という思考回路が、本当の理由だったのでは?と思わせるものがあります。
また、戦争反対という内村の主張が正しかったとしても、周囲や世間と争い、衝突し、軋轢を生み出した点は、新渡戸稲造の平和主義とは異なり、どこか闘争的で殺伐をしたものを感じさせます。
「剣を採る者は剣で滅びる」というイエスの言葉を、時代背景や文脈から切り離して「絶対の真理」として適用する——これは「聖書はすべて誤りなく正しい」という「聖書無謬説」の立場から来るものかもしれませんね。
この思考回路は、結論が「正しい」場合には称賛され、「間違い」の場合には大きな問題を引き起こします。
内村の非戦論はたまたま前者でしたが、同じ思考回路が後者の方向に転じたとき何が起きるか——それが次に述べる「再臨運動」になります。
ちなみにこの手の宗教トラブルは、さらなる極端な形で昭和初期以降の宗教的狂信の問題として現れていくようになります。
内村鑑三の再臨運動(1917年)——宗教体験者が陥りやすい教義への傾倒と、その危うさ
晩年の内村は「再臨運動」——キリストの再臨を待ち望む信仰運動——に情熱を注ぎます。
これは内村鑑三の活動の中でも特異であり、宗教体験や信仰における「危うい面」「注意点」と関係していますので、取り上げてみたいと思います。
内村鑑三の再臨運動とは何か
内村鑑三の生涯において、晩年に近い時期に特異な輝きを放つ運動があります。それが1917年(56才)から1919年頃(58才)にかけて展開された「再臨運動」です。
「キリスト再臨」とは、イエス・キリストがふたたびこの地上に降臨し、世界から悪を陶太して、平和な統治がゆきわたる「千年王国」を作るという信仰です。
新約聖書の各所に記されたこの予言を、内村は文字通りの事実として受け止め、熱狂的に説き始めました。
再臨運動が起きた背景
なぜ内村はこの時期に再臨運動を展開したのか。その背景には二つの大きな出来事がありました。
一つ目は、娘ルツ子の死(1912年)といいます。内村が深く愛した娘を失ったこの体験は、「人間の力ではどうにもならないものがある」という痛切な実感を内村に刻み込んだようです。
二つ目は、第一次世界大戦の勃発(1914年)です。近代文明の粋を集めたヨーロッパが、かつてない規模の殺戮を繰り広げた——この事実は、内村に「人間の力による平和には限界がある」という確信を与えたのでしょう。
人間の理性や文明によって世界は良くなっていくという近代的な楽観主義が、大戦によって完全に崩れ去った。
その廃墟の中で内村が見出したのが、「キリストの再臨による救済」という希望だったようです。
再臨運動の始動
1917年5月頃から内村はキリストの再臨を語り始めます。
内村の主張の核心は明確でした。
国際連盟のような人間の組織による平和ではなく、キリストが地上に再臨することによってのみ、真の平和がもたらされる——そういう終末論的な信仰です。
再臨運動をめぐる対立
しかしこの運動は、当時のキリスト教界に大きな波紋を呼びました。
内村は聖書無謬説(聖書はすべて誤りなく神の言葉である)を強調し、聖書の再臨予言を文字通りに受け取ることを主張。つまり原理主義(ファンダメンタリズム)です。アメリカの福音派に近い立場です。
一方、キリスト教の日本化を目指していた海老名弾正らは、聖書を時代背景の中で解釈すべきとする立場から内村と鋭く対立しました。いわば自由主義(リベラリズム)にや近代主義(モダニズム)の立場です。
この対立は単なる神学論争ではなく、「聖書をどう読むか」という根本的な問いをめぐるものになりました。
内村の再臨運動が示したもの——教義と「正しさ」の危険性
内村鑑三の再臨運動は、「熱狂的すぎた」と評されることもあります。また「イエスの再臨」や「千年王国」は、クリスチャンでなければ受け入れがたい思想です。
世間一般からすれば、「常軌を逸している」「狂信的」と思われても仕方ありません。
しかし別の角度から見れば、日清戦争、日露戦争、そうして第一次世界大戦という、繰り返される惨事に対して、深い幻滅を抱きながらも、それでも絶望に飲み込まれない希望への渇望が、「再臨運動」を生み出したのかもしれません。
ただしこれは、同情できる部分はあるにせよ、問題があったとも思います。ある意味、その後の宗教における社会的トラブルのひな形とも言えるからですね。
そもそも内村鑑三の生涯をみわたすと、不敬事件・非戦論・再臨運動と、世間と対立し軋轢を生み出すことが繰り返されています。
思想信条において「正しい」「義である」とするのは、実は危ういことがあります。
内村は言葉にとらわれていました。もっといえば、宗教教義への執着です。
教義、教えといった「外側」「衣装」にウェイトが置かれていたために、教えが正しい・悪いという二元論から脱却ができなかった。それが争い、対立、軋轢の繰り返しにつながっていたのだと思います。
宗教は、観念的・言語的な「正しさ」「義」を超えて、非言語領域における「善」へと開眼する必要があります。これを成すのが瞑想(黙祷)です。
仮に、聖霊体験をして神の愛を感じていたとしても、世間とどう関わるか、折り合いをつけるかはまた別の問題です。
その点、親友だった新渡戸稲造は、世間と衝突することなく、むしろ友愛、協調の精神で交わり、また言葉化された教えの限界を感じていたためキリスト原理主義に陥ることもなく、静かに自分を修養する穏健な歩みをしました。
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直情的に「正しさ」を表明することが良いとは限らない——いやむしろ、結果的にマイナスに至ることが少なくない——内村鑑三の生涯はそのことを端的に示していると思います。
再臨運動の歴史的文脈——ミラー運動との比較
ところで、実は「再臨運動」は内村だけの現象ではありません。19世紀のアメリカに、ウィリアム・ミラー(1782〜1849)という人物がいました。
ミラーは、旧約聖書のダニエル書8章14節「二千三百の夕と朝、その後聖所は清められる」の記述に基づき、イエス・キリストの再臨が1843〜1844年に起こると主張。
アメリカで約10万人が参加する「再臨運動(ミラー運動)」を起こします。
※1843年のアメリカ人口は推定約1,800万人。0.56%のアメリカ人が賛同したことになります。大規模な社会現象ともいえます。
しかし1843年3月21日から1844年3月21日と予告された期間にキリストは再臨せず、さらに日付を改めて予告した1844年10月22日にも再臨は起きませんでした。
「大失望」と呼ばれたこの出来事の後、ミラー運動は衰退します。
内村の再臨運動は、このミラー運動から約70年後に日本で起きた、同じ系譜に連なる運動として位置づけることができます。
いえ、内村鑑三に限らず、その後、世間を賑わす宗教のトラブルのひな形、原型を、ここに見出すことができます。
1848年のスピリチュアリズム運動とのつながり
興味深いのは、ミラー運動の「大失望」から数年後の1848年に、ニューヨーク州ハイズウェルで起きたポルターガイスト現象をきっかけに、欧米でスピリチュアリズム運動が爆発的に広まったという事実です。
スピリチュアリズム運動の本質は、制度化・形式化した伝統的なキリスト教への根本的な問い直しでした。
「死後の世界は実在する」「霊的な法則は自然の法則である」「神との直接的なつながりは誰にでも開かれている」——これらはすべて、既存の教会権威への対抗軸として機能しました。
キリストの再臨は「キリストが来ることへの期待」としてストレートに表れていますが、スピリチュアリズム運動は「キリスト教を刷新する」という形で表れています。
「スピリチュアリズム運動の大ブーム」こそが、キリストの再臨だったのかもしれない——そう考えると、19世紀半ばに起きた一連の出来事は、全く新しい意味を帯びてきます。
宗教体験者が陥りやすい罠——教義の絶対化
内村鑑三の「再臨運動」は、宗教問題を考察する上でも重要な教訓を宿しています。
繰り返しになりますが、内村鑑三は聖霊体験をしています。神の愛を直接感じ、その体験が生涯の行動の根底にありました。これはこれで尊く、崇高な体験です。
けれども、「教義の絶対化」という罠に陥り、世間からも理解されない「再臨運動」という形に走ってしまいました。
これは内村個人の問題だけではありませんね。宗教体験をした者が時に陥る「普遍的的なパターン」の一つでしょう。
宗教体験をした者は、その体験の確信から「これが真実だ」という強烈な感覚を持ちます。その確信自体は本物です。
しかし問題は、その確信が「特定の教義・聖典の文言」と結びついたとき、「聖書に書かれているから絶対に正しい」「教えが絶対に正しいのだから、世間がついてこないのはおかしい」という思考へと変質してしまう点です。
この考えの背後には、こだわり、執着、過信、怒りといったネガティブな情動があります。カモフラージュされた「正義」とでもいいましょうか。
宗教が奨めるやわらかさ、温かさ、協調、平和といった徳に根ざした正義ではなく、実態は怒りや執着といった暗い情念が絡んだ正義。
これでは、自分も周囲、社会にマイナスのダメージを与えてしまいます。そうしてますます強固な思想信条へと舵を切ってしまいます。
内村の再臨運動はまさにこのパターンでした。「キリストは必ず再臨する」という確信が、聖書の文言への文字通りの信仰と結びつき、現実世界との折り合いを取れなくさせていきました。
宗教体験と、その解釈運用は別問題
これはカルト宗教をはじめとする、近現代の宗教問題に共通する急所でもあります。
オウム真理教の麻原彰晃もまた、一定の宗教体験をしていたといいます。しかしその体験による自我の肥大化によって、「自分は選ばれた存在だ」「自分に反対し疑う者は敵だ」という方向へと転じ、あの惨劇が生じてしまいます。
血盟団事件を引き起こした井上日召(にっしょう)も同様です。深い宗教的確信が「義のための暴力は許される」という方向へと転じた典型的なケースです。
内村鑑三の場合は、暴力には至りませんでした。しかし「聖書の教えは絶対であり、世間がそれに従わないのがおかしい」という思考回路の中に、こうした問題と共通する構造があることは見逃せません。
重要な教訓はここにあります。「宗教体験の深さ」と「その体験の解釈・運用の適切さ」は、全く別の問題だということです。
深い体験をした者が、必ずしも世間との折り合いを適切に保てるということではありません。
むしろ体験の確信が強いほど、無自覚のうちに「自分は正しい」という過信が生じ、独善的な教理解釈にも及び、危険な歩みをたどるリスクも高まります。
大事なことは、教義の絶対視にしろ、思想への傾倒にしろ、自我の肥大化にしろ、脳内で生じる考え・感情に巻き込まれずに、適度な距離を置けるかどうか。これです。
宗教体験を活かす智慧
なので、智慧の瞑想(あるがまま、いまここ、プレゼンス)といった実習をおすすめしているんですね。
教義、思想、自我、判断などなど。こうした脳内で生じる働きにとらわれる・ベッタリになってしまうことに、人間の不幸も生じてきます。
仮に、崇高な宗教体験をしても、その体験にこだわったり、妙な自信や確信を抱くことで、現実においてトラブルを引き起こしてしまう事例は数多くあります。
程度を問わなければ、現在でもあります。SNSでも見られるかもしれません。
内村鑑三のように「神の愛」という体験は、宗教を超えた普遍的な意識です。
しかしその体験を「聖書のこの箇所が絶対に正しい」という教義的主張と、「自分の解釈は絶対に正しい」とを結びつけて、ここに気づかないままでいると——その体験の普遍性が失われ、自我の肥大とともに特定の宗教の枠内に閉じていくようになります。
宗教体験に惹かれる人へ——内村鑑三の生涯が示す警告と希望
宗教体験や神秘体験に関心を持つ方に、内村鑑三の生涯は一つの重要な警告を与えていると思います。
体験の後に「自分は特別な真理を知った」「この教えが絶対に正しい」という方向へと進み始めたとき、立ち止まって問い直すことが必要ということですね。
なぜなら、その考えの背後には、自我を大きくさせる働きから来ていることが多いからです。
崇高な宗教体験は、特定の教義を絶対化する方向ではなく、また自我の肥大化を進めるためではなく、周囲を明るく照らし希望を持たせるように活かすことが望ましくなります。
それと、宗教体験をしていない者が「正しい教義」への傾倒から狂信へと向かう危険性は、内村の場合よりさらに深刻です。
体験のない教義への執着は、それを支える内側の根拠がないぶん、外側からの権威や集団への依存に向かいやすいからです。
このケースでは、教祖化と信者化によるグルイズムや原理主義化などの複数の問題を露呈することが生じることも多くなりがちです。
体験はゴールではなく出発点ですね。体験の後に問われるのは、その体験をどう生きるか。世間との折り合いを保ちながら社会に貢献していけるかどうかですね。
内村鑑三の晩年と死
1930年3月28日、68歳で逝去。
内村鑑三は1930年(昭和5年)3月28日、68歳で逝去しています。
晩年は心臓を患い、体調を崩しがちな日々が続いていました。最後まで「聖書之研究」の発行を続け、信仰と著作への情熱を燃やし続けた生涯でした。
再臨運動から約10年、その生涯は波乱に満ちながらも、最後まで信仰と思想への情熱を燃やし続けたものでした。
内村鑑三の恩師と教え子|影響を与え受けた人々
内村鑑三の思想は、一人の人間から生まれたものではありません。恩師からの影響を受け、そして多くの教え子へと受け継がれていきました。
内村鑑三の恩師
ジュリアス・H・シーリー学長
内村に最も大きな影響を与えた恩師の一人が、アマースト大学のジュリアス・H・シーリー学長です。
アメリカ留学中に出会ったシーリーは、キリスト教徒としての精神的な土台を内村に与えた人物。
内村は後に「シーリー先生に会わなければ、今の自分はなかった」と述べるほど、深い敬愛を抱いていました。
ウィリアム・スミス・クラーク博士
また、札幌農学校のウィリアム・スミス・クラーク博士も大きな存在です。
「Boys, be ambitious」の言葉で知られるクラーク博士は、内村が入学した時点ではすでに帰国していました。
が、博士が育てた一期生たちの信仰が学校全体に受け継がれており、内村のキリスト教入信に間接的な影響を与えました。
新渡戸稲造
さらに、生涯の友であった新渡戸稲造と宮部金吾も、互いに高め合った存在として欠かせません。
内村鑑三の教え子たち
内村の思想と信仰は、多くの優れた人物に受け継がれました。
矢内原忠雄(1893〜1961)は経済学者・東京大学総長として知られますが、内村の無教会主義を継承した信仰者でもありました。戦時中は反戦平和を貫き、大学を追われながらも信念を曲げませんでした。内村の精神を最も忠実に受け継いだ弟子の一人といえます。
藤井武(1888〜1930)は英文学者・キリスト教伝道者で、内村の右腕として活躍しました。内村の思想を広める上で中心的な役割を果たし、その早逝を内村は深く悼んだといいます。
斎藤宗次郎(1877〜1968)は、愛弟子として知られる人物です。晩年の内村の傍らで「聖書之研究」の編集に携わり、内村の言葉と活動を克明に記録し続けました。
鈴木弼美(1878〜1963)は教育者として、山形県でキリスト教独立学園を創設。内村の反戦精神を教育の現場で実践した人物です。
政池仁(1888〜1966)は内村の聖書研究会で学び、無教会派の活動に長年貢献しました。
これらの教え子たちに共通するのは、制度や形式にとらわれず、信仰と社会への責任を自らの内側から貫こうとする姿勢です。
それはそのまま、内村鑑三が生涯を通じて示した姿勢の反映でした。
内村鑑三の名言|後世への最大遺物・二つのJほか
内村鑑三は、講演・著作・書簡を通じて多くの言葉を残しています。以下に代表的な名言をご紹介します。
「後世への最大遺物は何か」
「われわれが後世に残すことのできる最大の遺物は何か。それは勇ましい高尚なる生涯である。」
出典:講演録『後世への最大遺物』(1894年)
内村が33歳のときに行なった講演の核心をなす言葉です。お金でも事業でも思想でもなく、誠実に生き抜いた人生そのものが、最も価値ある遺産であるという内村の確信が込められています。この講演録は今も岩波文庫などで読まれ続けている内村の代表作です。
「二つのJのために」
「余は日本のため、イエスのために生涯を捧げんと誓う。Japan and Jesus——これが余の二つのJである。」
内村が生涯の使命として掲げた言葉です。キリスト教の信仰と日本への愛を対立させるのではなく、両立させながら生きることを誓ったものです。この「二つのJ」という表現は、内村の思想を一言で表すものとして今も広く知られています。
「余は如何にして基督信徒となりし乎」
「神は愛なり、この一事のみを知れば余は満足なり。」
出典:『余は如何にして基督信徒となりし乎』(1895年)
アメリカ留学を経てキリスト教徒となった経緯を記した自伝的著作の中の言葉です。複雑な神学や教義ではなく、「神は愛である」というシンプルな真実への到達が、内村の信仰の核心でした。
「成功の秘訣」
「成功の秘訣は、天職を見つけることにある。」
内村が繰り返し語ったテーマです。世間的な成功や出世ではなく、神から与えられた自分本来の使命(天職)に生きることこそが、真の充実した人生であるという内村の信念を示しています。
「非戦論」
「戦争は人を殺すことである。人を殺すことは大罪悪である。」
出典:「万朝報」掲載の非戦論(1903年)
日露戦争開戦前に発表した非戦論の核心をなす言葉です。当時の社会的圧力の中で、これほどシンプルかつ明確に戦争の本質を語った言葉は珍しく、内村の信念の強さを示しています。
こんなよいものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。
聖霊体験について
「こんなよいものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。」
出典:『内村鑑三信仰著作全集(9)神 聖霊 三位一体』「聖霊を受けし時の感覚」より
聖霊体験をしたときの心境を記した言葉です。金も名誉も地位も、すべてがどうでもよくなるほどの充実感——これが内村の言う「聖霊体験」の本質でした。この言葉は、体験した者でなければ書けない言葉として、今も読む者の心に響きます。
まとめ——内村鑑三が今に伝えるもの
内村鑑三の生涯をたどってきました。
不敬事件・非戦論・無教会主義・再臨運動——波乱と対立に満ちた生涯でした。世間と衝突し、批判を浴び、それでも信念を曲げなかった。
そのエネルギーの根底にあったのが、30代後半に体験した「聖霊体験」——神の愛を直接感じるという体験——だったと思います。
「こんなよいものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない」と書き残した内村の言葉は、体験した者でなければ書けない言葉です。
金も名誉も地位も、すべてがどうでもよくなるほどの充実感と愛の体験。それが内村の思想と行動の根底にあり続けました。
しかし内村の生涯は、宗教体験が深くても、その体験の解釈と運用を誤れば問題が生じることも示しています。
聖書の絶対化・再臨運動への傾倒——これらは、体験の確信が観念や教義と結びついたときに起きる変質の典型です。
内村鑑三という人物を「キリスト教思想家」「無教会主義の創設者」という肩書きで理解しようとすると、必ずどこかで引っかかりを感じます。
なぜここまで信念を貫けたのか、なぜ社会と衝突しながらも折れなかったのか——その問いへの答えが、聖霊体験という内面の体験にあったのだと思います。もちろん、彼自身の生来の性格もあったと思います。
けれども、聖霊体験によって隣人愛に目覚めた誠実な信仰者であり、無教会主義という独自の道を切り開いた思想家であり、非戦論を貫いた平和主義者だったとしても、同時に、教義や思想へ傾倒するという罠に陥った人間でもあったと思います。
その矛盾と誠実さの両方を含めて見たとき、内村鑑三という人物の輪郭が初めてはっきりと見えてきますね。
彼から学ぶことは何か?
一つは「体験の大切さ」ですね。頭で理解する信仰ではなく、神の愛を直接感じるという体験——これこそが人間の心と行動を根底から変え、崇高な思いに至らせて生涯を貫く力になること。内村の生涯はこれを示しています。
けれどももう一つの大事なことは「宗教体験をした後はどう生きるか」という問いです。いえ「宗教体験をどうとらえていくのか」といったほうが正確でしょう。
崇高な宗教体験があったとして、それはゴールではなく実際は出発点です。本当の意味でのスタートライン。
体験の後に問われるのは、その向き合い方。体験をどう解釈し自我の肥大化を防ぎ、世間との折り合いも保ちながら、より深い愛と智慧へと育てていけるかどうかですね。
内村の生涯を見わたすと、宗教体験があったことと、その体験を世間とどう折り合わせるかは別の問題であることがよくわかります。
宗教や信仰、思想における「正しさ」の主張が、ときに争いや対立を生み出す——これは内村鑑三の生涯が示す重要な教訓だと思います。
内村鑑三は、現実との折り合いの仕方と、その問いに完全には答えられなかったかもしれません。
しかしその問いを生涯かけて誠実に生き続けたこと——これは最大の遺産ですね。
内村鑑三からは、光と闇の両方を学ぶことができると思います。

