一瞥体験・覚醒体験を発表する人は多くなっている
今、いろんな体験をしている人がいますね。こういうのがわかるのも、ネットのおかげであると思います。
昔は、本を出して発表するのが主流でした。
しかし出版はハードルが高いんですよね。
なので体験を発表する(できる)人は少なかったんですね。
が、今ではブログ、ツィッターなどのSNSで簡単に公開できます。また拡散され共有され広まっていきます。
しかも書籍とは違って、その人とコンタクトも取りやすくなっています。
昭和や平成の時代に比べて、何らかの体験をした人は、ブログやSNSで手軽に発表することもできます。今では、いろんな体験を見聞できます。
悟りと一瞥体験・覚醒体験は違う
ただ、それらの体験が「どういう体験なのか」をきちんと判別することは大事かなあと思います。
多いのは「悟りでないのに悟り」と思ってしまうケースですね。
体験には、
- 悟り体験・・・認識の変容(生の事実と記憶による表象の違いがわかる)
- 覚醒体験・・・真我体験、目覚め体験、キリスト教でいう聖霊体験・回心体験・見神体験・照明体験、スピリチュアルで言われる一瞥体験、宇宙意識体験
- エネルギー体験・・・チャクラ、クンダリーニ
- 禅定体験・・・サマーディ
- 善行体験・・・善行の積み重ねによる意識の高揚
- アストラル体験・・・アストラル次元で起きる変性意識、霊体験、一時的な夢想体験(比較的多い神秘体験)
- 妄想体験・・・本人の思い込み、ヒステリー体験、錯覚(れこも意外と多い)
ザックリ分けるとこれくらいに分けることができます。
聞き慣れない言葉もあるかもしれませんが、これらは似ている体験もあれば、異なる体験もあります。これらの体験の違いをきちんと分別することは大事ですね。
ちなみに覚醒体験やエネルギー体験には、浅い深いの違いがあります。そのため体験者によって言っていることに違いがあったり、体験したことの定着度合いにも違いがあったりします。
禅定(瞑想)や善行にも浅い深いなどの違いがありますね。これと同じです。
ちなみにアストラル体験や妄想体験は、スピリチュアルに多いのですが、変性意識であるため(ドタッグ体験と基本的には同じ)有害になることも多々出てきます。
このことは、以前、講座でタップリとお話しもしました。
「悟り」と「覚醒体験」は違う~悟り体験をよむ 2022年2月4月講座まとめ
一瞥体験・覚醒体験の呼び名・解釈はさまざま
ちなみに、一瞥体験や覚醒体験の呼び名(名称)に関しては、さまざまな言い方があります。宗教などによって違っています。また体験に深浅がありますので、この辺りはちょっとややこしくなっています。
キリスト教における解釈~聖霊体験・回心体験・照明体験・見神体験
たとえばキリスト教においては、回心(かいしん)する体験にも深い浅いがあります。が、いずれも「回心体験」としています。
カトリックの定義では、浅い体験も含んでいるように思います。しかし浅い体験では、どことなく気分的なもので終わってしまいます。
が、深い回心体験になりますと、意識に変容が起きます。たとえば「絶対的に救われた」「神(創造主)と合一した」「神(創造主)にあった」「愛に目覚めた」「神の義の恩寵にあずかった」という体感が生じます。
で、これこそが「神の救いにあずかった」ということになります。言い換えると「聖霊(エネルギー)」のはたらきによって新生する体験をいいます。
この体験は、本人に極めて強い確信が生じるのが特徴です(後述する一瞥体験が深くなった体験ですね。覚醒体験です)。
プロテスタントでは、これを「聖霊体験」と言っているように思います。ルターの「塔の体験」も、おそらくこれになります。
なお同じキリスト教でも、神秘主義では「照明体験」「見神体験」といっています。
しかし表現に違いがあっても、キリスト教には、これらの体験を理解し受け入れる伝統があります。しかもアウグスティヌスは「異教徒においても聖霊体験は起き得る」といったことを言っています。
キリスト教における聖霊体験は、スピリチュアルでいうところの一瞥体験、宇宙意識といわれる覚醒体験だったりします。
ちなみにキリスト教では、瞑想における「禅定体験」を「異端扱い」にしてきた歴史があります。昔は、言い方を誤ると火あぶりの刑になったものです^^;
仏教における解釈~善行・禅定・悟り
ところで仏教(原始仏教)になると、少しややこしくなってきます。仏教では「禅定」や「善行」体験は理解されやすく、受け入れられます。
ところが一瞥体験や宇宙意識体験になりますと、魔境扱いされることがあります^^;
キリスト教とは真逆なのがちょっと笑えてきます。でも仏教では火あぶりの刑はしていませんね(笑)
で、キリスト教においては、一瞥体験や宇宙意識体験は、聖霊体験や回心体験、照明体験といった意味で受け入れられます。
しかし仏教(原始仏教)では取り扱いが微妙です。明確に規定していないのが原因だからだと思います。
もっとも親鸞の歎異抄でお馴染みの浄土真宗では、他力に徹すると「回心(えしん)」といって、自分が生まれ変わる体験をすることをいっています。浄土真宗は別ですが、原始仏教では明確な定義がありません。
そのため一瞥体験をめぐっては誤解も起きています。
たとえば一瞥体験では、自分の肉体に収まっていた自己の感覚が木っ端微塵になったり突然消滅して、「自分ではなかった」ということを如実に体験することがあります。そのため「有身見が切れた(自我が無くなった、無我を体験した)」と誤認しやすいところがあったりします。
しかし悟りは、常に「私」という思いが脱落した有り様をいい、これを無我といっています。ですので一瞥体験や覚醒体験における無我体験は悟りではありません。
けれども、この辺りがよく知られていないため、一瞥体験を「悟り体験(見性)」としてしまう場合があります。この傾向は臨済宗に多いように思います。
ちなみに悟りは、認識が変わる体験です。「灯火が消える」のたとえの通り、いったん認識が止むことで生じる有り様です。悟りとは、意識の拡大や「私はない」を体感したり、宇宙を感じる体験では無かったりします。一瞥体験や覚醒体験は悟りではありません。
無我は、灯火が消えた後に生じる感覚だといいます。「私がない」を体験しているのは本当の無我ではなく、悟りでもないといいますね。
ヨーガにおける解釈~真我体験
ヨーガでは覚醒体験を「真我体験」といっていますね。
ヨーガは、「ギャーナヨーガ」「バクティヨーガ」「カルマヨーガ」が伝統的です。ハタヨガは後発組です。しかもハタヨガは、邪道とされ続けてきたワケありな歴史があったりします。
で、どのヨーガでも「エネルギー体験」が副産物のように生じることがあります。
ちなみにキリスト教は、ヨーガにおける「ギャーナヨーガ」「バクティヨーガ」「カルマヨーガ」がセットになったようなものですね。ですので聖霊体験・回心体験の本質は、真我体験だったりします。
ちなみにキリスト教で聖霊体験・回心体験(覚醒体験)をした人の中には、ヒーリング能力が生じることがあります。チャクラやクンダリーニが覚醒する「エネルギー体験」が付随することがあるわけですね。
スピリチュアルがもっともややこしい~一瞥体験・アストラル体験
あとスピリチュアルには、キリスト教や仏教、ヨーガのような「伝統的な解釈」がありませんし、定まっていません。
しかし一瞥体験、宇宙意識体験といわれる覚醒体験があります。
ただあまり知られていないと思いますが、一瞥体験には、浅い深いがあります。浅い体験になると、まさに「真理のチラ見」のように「ふーん」で終わってしまいます。
けれども少し深い体験になりますと、キリスト教の回心体験や聖霊体験と同じような「絶対的に救われた」「神と合一した」「愛に目覚めた」といった強烈な体感が生じます。
さらに深くなると、体験した後に高次的なものが残ったり、定着するようになります。この場合は、一瞥体験を超えて覚醒体験になります。本人に自覚が無くてもチャクラが覚醒している場合があります。
人によっては、はっきりとしたエネルギー体験がともなう場合もあります。まさに覚醒体験と言える深さが生じます。
一瞥体験は、体験者によって中身に違いが多々あります。ですのでどの程度なのか、意識の変容は起きているのかなど、実際に聞いて見たりして様子をうかがわないとわかりにくいところがあります。
一瞥体験はリアルな体験になりますが、伝統的な宗教(特に仏教)には「解釈の仕方」がありません。そのため体験したご本人は、どう理解してよいのかわからなくなったり、混乱するときがあります。
それとスピリチュアルには、アストラル体験や妄想体験も多く、中にはアストラル次元で起きている体験を一瞥体験や覚醒体験としているケースもあって、見極めるのがちょっとややこしいところもあります。
スピリチュアルは混乱気味ですね。スピリチュアルがもっともややこしいと思います。
やはり伝統の宗教のように、体験を判別する物差しがきちんとありませんと、混乱を招くことが多くなると思います。
一瞥・覚醒体験なのか悟りなのかを峻別する
見聞した体験や自分が体験したことが、一体どういう体験なのかを判別して理解することは非常に大事なんですね。
悟りは認識の有り様が変わってしまうことですので、覚醒体験ではありません。
しかし誤った受け止め方をしますと、いろいろとマズいことになります。悟りでないものを悟りとしてしまったり、勘違いをすると、何かとよろしくありません。
過去の宗教の歴史をみても、アストラル系の神秘体験(変性意識体験)を解脱としている教団もありますからね。錯誤することで、悲劇に陥ることも少なくありません。
体験を新しい表現にしている現代
また、昔からある体験を、新しい言葉や概念を使ってパッケージの装いを新しくすることで、まるで斬新かつ新しい体験に感じられることがあります。
でも包装紙を取れば、昔からあるものと同じなんですね。
一瞥体験なのか、覚醒体験なのか、悟り体験なのか。こうした体験の交通整理は必要でして、「体験ソムリエ」のような人も必要じゃないかと思います^^;
一瞥体験者は多くなる
昔にも市井の体験者は数多くいたと思います。
ただ、そうした人達の存在が知られていなかっただけですね。
昔は「書籍」「団体」を取るなど、ごく一部の人しか発信できませんでしたからね。
が、今は違います。
でも、これだけ誰でも発信できる時代になりますと、昔と違って、多くの体験者が登場するでしょう。
玉石混交することがあっても、いいことだと思います。
フィーリングや相性の合う人、学びになりそうな人、必要だなあと思う人との出会い、縁の選択が広くなりますからね。
で、昔のように「著名人」ではなく、グループ単位での活動ももっと広がっていくと思います。
悟りソムリエが必要な時代
が、ソムリエ的なセンスといいますか、見識、慧眼は、昔に比べてますます必要になるんじゃないかと。
「情報リテラシー」ならぬ「悟りリテラシー」「覚醒リテラシー」といった、悟りなどの体験に関する判別も、より求められる時代になっていると思います。
それだけ、体験が多くなっているということですね。で、真贋(しんがん)を見極めることも大事になってきています。
やはり、悟りソムリエ、体験ソムリエは必要ですね^^;