悟り・解脱がおすすめの理由|苦の根絶と一瞥体験・覚醒体験との違い

悟り・解脱がおすすめの理由

悟り・解脱のほうがおすすめです。

このことを、以前行ったセミナーの資料から引用してざっと紹介します。

悟りと神秘体験とは違う|著書「悟り体験を読む」を元に

悟り・解脱とは?

悟りとは、一言でいえば「無我にいたる」こと。悟りは、禅宗で使われている言葉ですが、原始仏典で説く三結(有身見、疑惑、戒禁守)の煩悩を根絶することと同じです。

つまり預流果の解脱、これが悟りですね。三結煩悩を根絶することによって無我にいたるとしています。

で、解脱の中に「悟り」があるということですね。一来果、不還果、阿羅漢果はすべて「無我」にいたっています。つまり預流果もほかも、無我に達したという点においては同じです。

ですので、禅では「悟ればブッダと同じ」といっているんでしょう。これは「無我」という点においてはブッダと同じという意味ですね。

しかし、一来果、不還果、阿羅漢果では、情緒(欲貪、瞋恚)といった煩悩の根絶も進んでいきます。ですので、厳密にいえば、禅の悟りは、ブッダの悟りとは同じではありません。

けれども「無我」という意味において、悟りも解脱も、大事な本質(無我という点)においては同じで、迷い苦しみ煩悩から解放されて自由になることですね。

何故、悟り・解脱がおすすめなのか?

⇒苦しみが無くなるから。

⇒「私」という認識・自覚が無くなり、物事に対して記憶や観念が絡まない「生の事実」「あるがまま」として受け止められ、この認識の有り様が苦しみを生じさせなくさせる。

⇒言い換えると苦しみが連続しなくなる(いまここ)。これを「前後際断(ぜんごさいだん)」という。

⇒解脱は、宇宙最高神の梵天(ぼんてん)という神さまよりも優れている。梵天という神さまも生まれ変わり、どこかで苦しみのある生命に生まれ変わる。

⇒全ての生命は遠い過去世において皆、梵天だった。しかし生まれ変わりを続けて今こうしている。

原始仏典に伝承されていり解脱がおすすめとされる説明を要約すると、このようになります。

どんなに素晴らしい体験でも苦は残る

結局、どんなに素晴らしい神秘体験があったり、高揚感がともなう広がりがあって、強いエネルギーを感じる素晴らしい体験をしても、実のところわずかに苦しみが残る、苦しみを感じることがあります。

このような体験そのものは素晴らしいことですが、けれども、これと苦の根絶とは別なんですね。

やはり本当に望ましいことは、苦しみが終わること。苦の完全な根絶。迷いの煩悩から自由になることですね。

ブッダが力説された通りだと思います。ですので、悟り・解脱のほうが、究極的にはおすすめということになると思います。

あるがまま=いまここ

ところで解脱・悟りにつらなる実践の「あるがまま」「いまここ」。これは原始仏典にも伝承されている「如実知見」のことになりますが、実は、「あるがまま」は「いまここ」と同じことだったりします。

どちらも同じことだったりします。

  • あるがまま・・・ 「受け止め方」から表現した認識の有り様
  • いまここ・・・ 「時間感覚」から表現した認識の有り様

このことは何度かお話しもしていますが、「あるがまま」という言い方をすると、受容の姿勢のように聞こえるかもしれません。

確かに、そういうところはあります。

あるがまま・いまここは悟りの様子

けれども、悟り・解脱となりますと、心の姿勢を超えて、記憶や判断がからまなくなる認識の変容をいっています(いっているといいます)。

「いまここ」も同じです。現在(今)に注意を向けるという意味ではなく、前後に引っぱられず、苦しみが連続しなくなる認識の有り様と言われています。

悟り・解脱と一瞥体験・覚醒体験との違い

ここで、以前、講座でお話しした悟り・解脱と一瞥体験・覚醒体験・見性体験・見神体験との違いを、記事に載せたいと思います。

一瞥体験や覚醒体験にも意味はあります。まったく無意味ということではないんですね。有益ですし価値はあります。

ですが、一瞥体験や覚醒体験は悟り・解脱ではないんですね。同一視するのは違いますし、リスクも出てくるかと思います。

違いをざっと整理すると、次のようになります。

※横にスクロールしてください

悟り
※私(三結)の根絶
見性体験、一瞥体験
見神体験、覚醒体験
瞑想の特徴 ◎坐禅を行う ◎瞑想を行う
◎対象を持たない ◎対象を持つ
なにもしない なにかをする
・純然たるあるがまま ・観察瞑想・集中瞑想など
※対象を設けないので自他観が弱まり消滅する ※対象を設けると必ず自他観が生じる
認識の様子 ◎認識がいったん止む ◎認識は止まない
・認識しない無我が起きる ・無我を認識する
・悟りが起きる ・覚醒体験、見性体験、一瞥体験、禅定が起き得る
・ナマの事実(記憶、判断がからまない事実)がわかるようになる。⇒苦の根絶 ・記憶、判断が絡まないナマの事実は決してわからない ⇒苦が残る
・認識がいったん止むとは、輪廻がいったん止むこと(通常は起き得ないこと) ・認識がいったん止むことはない
体験の有無 ◎何らかの体験が無い(無我だから) ◎何らかの体験がある(無我を感じているから)
・「見ている自分」がいないから、体験がない(起き得ない) ・見ている自分がいるから、体験がある(体験する)
体験の深浅 ◎体験の深浅はない(全員、同じ) ◎体験の深浅はある(バラエティに富む)
・体験に深浅はない ・体験に深い浅いがある。
・体験に違いはない ・体験の仕方に違いがある。
・無我は一回だけの体験 ・何度も体験することがある。
本質 ◎本質は認識の変容 ◎本質はエネルギー体験
・意識の変容はない ・意識の変容が起きる
・意識の拡大・高揚はない ・意識の拡大・高揚が起きる
霊性への開眼はない 霊性に開眼する
・特殊な能力は生じない ・浄化力、遠隔透視、超能力が生じることがある
体験後 ◎体験後は認識が変わる ◎体験後も認識は変わらない
・私(自他観)が完全に無くなる(一体感) ・私(自他観)はわずかでも残る、戻る
・事実実物、あるがまま(一体感) ・不完全な「私の消滅」「あるがまま」
・苦しみ迷いから解放され自由になる ・苦しみと迷いは残る
苦しみ ◎苦しみが根絶 ◎苦しみの根絶は起きない
認識の煩悩 ◎認識の煩悩(三結)が根絶する ◎認識の煩悩(三結)は根絶しない
方法 ・原始仏教 ・各種ヨーガ
・大乗仏教(中観派) ・アドヴァイタ(ノンデュアリティ)
・大乗仏教(瑜伽唯識派) ・キリスト教神秘主義
・禅(道元禅) ・臨済禅
・タオ
・現代覚者のほぼ全て

苦の根絶という一点が決定的に違う

このような違いがあります。

要するに、一瞥体験や覚醒体験は、どれだけ魅力的であっても「体験」です。そこにはまだ、見ている自分、受け取っている自分、解釈している自分が残ります。

一方で、悟り・解脱は、そうした「私」が根本から消えて、認識の有り様そのものが変わることを問題にしています。

ここで大事になってくるのは、体験があるかどうかより、苦が終わるかどうかです。

深い体験、神秘的な体験、拡大的な体験があっても、苦しみが続くなら、まだそこは途中。逆に、地味に見えても、苦しみが根絶するほうがはるかに本質的です。

悟りには霊性の開眼がない

しかし悟り・解脱そのものには、霊性の開眼はありません。

厳密にいえば、悟り(三結の根絶:無我)においては、霊性は関係ありません。

無我は、無我です。

霊性は、真我体験(見性体験、一瞥体験、覚醒体験、見神体験)などの各種の体験に付随します。絶対に付随するとは言えませんが、霊性への開眼を伴うことが多くなります。

けれども「悟り」においては、霊性の開眼は起きません。悟りを包括する「解脱」は、真我体験も包括していますので、霊性への開眼は起き得ます。

悟りと、解脱とでは、霊性の開眼に違いがあるってことですね。

真我とは何か?【まとめ】古今東西の宗教・哲学・スピリチュアルにおける表現を徹底比較

ブッダが解脱を推奨した理由

このように違いがありますが、無我は苦しみが根絶しますので、これが故に、ブッダは解脱(悟り)を推奨したことがわかってきます。

このあたりが、「一瞥体験・覚醒体験と悟り体験は違う」というだけでなく、なぜ悟り・解脱のほうをすすめるのかという理由でもあります。

悟りと一瞥体験・覚醒体験・見性体験・見神体験との違いは、こちらにもあります。

一瞥体験・覚醒体験は悟りではない|体験の違いと見分け方を整理する

なぜ一瞥体験より悟り・解脱のほうがおすすめなのか

またこちらには、悟りの初門(預流果)の状態についてもまとめてあります。

⇒預流果になるとどうなるのか?

ご興味のある方はあわせてお読みになってください。

一瞥体験+解脱=ブッダの教法

一瞥体験や覚醒体験は、これはこれで意味があり、価値があり、有益ですね。なんといっても霊性(真我)にひらかれていきます

悟り・解脱には霊性の開眼はありません。

この辺りも混乱、誤解されていますが、その混乱・誤解の理由も、

真我体験(一瞥体験、覚醒体験)+解脱(悟り)=ブッダの教法

ということがうまく理解されていないと考えています。

で、この両方とも、畢竟、どちらも大切ということですね。

そこで、まずは4つの実践を行って、プレゼンスに開け、真我意識がわかるようになって、さらに真我を深める。

そうして途中から坐禅(坐禅的な修行)にシフトしていくことをおすすめしています。

悟り・解脱がおすすめの理由|苦の根絶と一瞥体験・覚醒体験との違い

まとめ|悟り・解脱がおすすめといっても

とはいっても、まずは、派手な体験を追い求めるスピリチュアル的な瞑想ではなく、実際に苦しみが減ること、自由になること、あるがまま・いまこことした文脈の瞑想を行っています。

で、究極的には、悟り・解脱ということですね。

この辺りのバランス感覚といいますか、健全に取り組む姿勢は、とても大切です。

ほがらかに、ゆるりと、ユーモラスに行っていくことは大切だなあと感じています。

この文脈には、誤解、勘違い、過去には悲しい事件も起きていますので、注意が必要で、白刃の上を歩くような慎重さと注意深さも大切だなあと思います。

なお「何もしない」「対象を持たない」といった坐禅の方向については、こちらも参考になります。

「手放す」「何もしない」の本当の意味|瞑想で大切な注意点と智慧

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