真我に気づく5つのポイント|一瞥体験・覚醒を招く実践

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真我体験が起きるための5つのポイント

真我体験には、一瞥体験、見性体験、見神体験などさまざまな名称が付いています。が、宇宙の根源意識・創造主・ブラフマン(真我)がわかる、目覚めるための実践は、5つにまとめることができます。それは、

  1. 求める——【真我・霊性の趨勢】
    真理、真我、ブラフマン、神を求める心、発心、発菩提心、本心から祈る、バクティ・ヨーガ、求道心
  2. 浄める——【善き認知・瞑想・ヒーリング・懺悔】
    善き認知・言動、戒、清浄、信、懺悔、悔い改め、回心、カルマヨーガ、反省、天啓気療、セッション
  3. あるがまま——【明け渡し・観察・慈悲・禅定】
    いまここ、観察瞑想(ヴィパッサナー)、自己観察、明け渡し、神に委ねる、他力、無為自然、無関心の中心、リラックス、慈悲、愛、善、サマディ
  4. 感受力——【気づき・自覚力】
    念(気づき)、観察、自覚力、洞察力
  5. 識別力——【善と自我を見分ける】
    智慧、択法覚支、慚愧、良知、霊動弁別、ネーティ・ネーティ(Neti Neti)、ギャーナヨーガ

これら5つです。

5つのポイントは渾然一体としている

これらの5つは別々のステップではありません。実践の中では渾然一体となって同時に起きてきます。

また順番通りに進むものでもなく、どこから始めても、すべての要素がつながり合ってスパイラルに深まっていくようになります。

真我体験とは霊性の開眼・体現でもある

さらにいえば、これら5つの根底には「霊性(れいせい)」があります。霊性とは、愛、善、究極を本能的に求める神の趨勢(すうせい)です。

真我体験とは、霊性の開眼・体現とも言えるくらい表裏一体だったりします。

1. 求める——真我・霊性の趨勢

真我・神・宇宙意識への気づきが起きやすくなるためには、まず「求める心」が必要です。といいますか欠かせません。求める心が土台になります。

真理・真実・真我を求める心は霊性の趨勢(すうせい)になります。ここが原点になります。

アプローチには大別して2つあります。

  1. 真我を求める
  2. 神への祈り

1.真我を求める心は重要

求める心——高次の意識、真我、根源意識、善、愛を心底求める心——これが真我体験への道を開く原動力となります。

まずは高い意識や精神性を求める意欲があること。これが大切です。求道心でもあります。

これが無ければ、スピリチュアルや超能力、意識のあり方(変性意識)、不思議現象などの横道にそれてしまいます。

本当に「求める心」があることで、無意識のうちに真我・神・宇宙意識に向かうようになってきます。

霊性から生じる「真我を求める心」

求める心はとても大切です。

性があるからこそ、神の本体である真我を求め、宇宙の根本原理(ブラフマン)と一体になろうとしたがるんですね。

このことは意外と見落とされています。

見落とされているため、霊性ではなくエゴ・欲望から生じるスピリチュアルへの関心——超能力、霊能力、特異な意識状態、霊的現象——に惹かれてしまい、道を外して天狗の世界などの低い境涯へと行ってしまいます。

ブッダの時代にいた六師外道らも同じです。

霊性が無意識のうちに動いているからこそ、真我・神・根源意識を求めるんですね。逆にいえば、無意識のうちに真我を感じているともいえます。

真我を求める「聖なる求道心」こそ、真我の道を歩む原点であり、潜在的に既に体得体現できていることも示唆しています。

真のスタートラインに立つことは非常に重要です。

2.バクティヨーガ(神への祈り)と求める心

バクティヨーガは、神(真我、根本意識)への純粋な愛と帰依によって真我・ブラフマンと一体化する道です。

愛・献身の深まりとともに、「愛する者」と「愛される者」の区別が溶け、自我が自然に手放されていきます。スーフィズムのルーミーが「愛こそが神との合一への究極の道」と詩に刻んだのは、このバクティの本質を表現したものです。

本心から神・真我を求める切実な心が、体験への扉を開く原動力となります。

祈りは、決して宗教的な行為ではなく、真我に開眼する行為だったりします。

各宗教などにおける求める心

一般的には、「意欲・向上心」といわれています。中でも「世の中のために尽くしたい」「人々のために貢献した」といった利他の思いから出ている意欲や向上心は、根底に霊性がありますので、真我を求める心に通じるものがあります。

それ故に、高次意識を体得体現する文脈では、利他の心、慈悲、隣人愛が重視されるわけですね。

仏教では「発心(ほっしん)・菩提心(ぼだいしん)」といいます。真理真実を求める決意、仏道に入る発心のことです。

あるいは「精進(しょうじん)」もそうですね。精進は、頑張ることではなく続けるが本義になります。しかも真理、真実、高い精神性を求めるために、修行実戦を続けることをいい、この裏側には「求める心・意欲」があります。

キリスト教では単に儀礼として祈るのではなく、本心から神を求め、神のための手足となることを願い、聖霊を求めて祈る——この姿勢が体験の土台となります。

探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」(マタイ7章7節)

「山上の垂訓」で有名なこのイエスの教えは、求めよ、さらば与えられんという言葉として知られています。

この言葉は発心・菩提心を指していますね。真剣に求める心があってこそ、高い宗教精神がもたらされるようになります。

発心・菩提心・回心・求道心——言葉は異なっても、本質は同じです。

2. 浄める——善き認知・瞑想・ヒーリング・懺悔

真我・神・宇宙意識への気づきが起きやすくなるためには、心の土台を整えることも重要です。それが心を浄めることです。

アプローチは大別して5つあります。

  1. 認知の善化
  2. 瞑想
  3. 真我系ヒーリング
  4. 善行(カルマヨーガ)
  5. 懺悔・反省

1.心の浄化(清浄)による真我への気づき

心の浄化は、どの伝統においても、真我への道の最初の段階として説かれています。

言動を適切にし、認知を整え、また瞑想などで心を落ち着かせることで心を浄めていきます。天啓気療Sさんのセッションを併用することで、心の浄化は促進されます。

心が浄まることで、純粋意識である真我・神・宇宙意識に気づきやすくなります

思考・感情への注意

人は、善いことでも悪いことでも、善い感情でも悪い感情でも、それが強ければ強いほど、エーテル次元やアストラル次元に強固な想念物質(エレメンタル)を形成します。

で、これが真我、神、根源意識をわかりにくくさせてしまいます。

日常の生活においては、思考を強めすぎない、感情を激しくさせないといった注意も必要です。

これと関連して、難解で答えがわからない・わかりにくい哲学、体験の無い観念的な思想、体験のないスピリチュアル、想像で造られたスピリチュアルなどに強く興味を持って関わるのもよくありません。

いずれのケースにおいても、想念物質(エレメンタル)を強固に形成して、真理、真実がわかりにくくなってしまいます。いわゆる「マインドが強い」タイプにしてしまいます。

2.瞑想による心の浄化

また心を浄化するパワフルな実践としては瞑想があります。次の「あるがまま」と関連しますが、おすすめの瞑想は「あるがまま」系の瞑想です。

あるがまま、いまここ、明け渡し、気づき、観察いった瞑想をしていると、思考や感情で形成されたエレメンタル(想念体)は、自然に脱落、溶解していくようになります。

瞑想は、エレメンタル(想念体、想念物質)を解放させていく伝統的な方法になります。

3.真我系ヒーリングによる心の浄化

あるがまま系の瞑想をしていると、想念物質(エレメンタル)は自然に脱落、溶解していくようになります。

しかし情報化社会の現代では、瞑想だけは力不足の場合が多々あります。

そこで天啓気療とSさんのセッションを、瞑想と併用して受けるのがおすすめです。

天啓気療とセッションによって、意識の深い部分から心を浄化していくことが可能です。

4.善行(カルマ・ヨーガ)による心の浄化

善行の本質とは、行為を通して認知を適切にする(善くする)ことになります。これをインドのヨーガの文脈では「カルマヨーガ(行為の道)」といっています。

真我には善の性質があります。この善とは文言化された教えとしての善ではありません。真我がもたらす「あたたかさ、やわらかさ、明るい感じ、すがすがしさ、凛とした感じ、力強さ」などが渾然一体となった体感です。根底には霊性が関連しています。

善行によって、善の感覚、体感が生じることで真我に開眼する道ですが、そのほとんどが認知を浄化することになります。

結果への執着を手放し、神への奉仕として行為し続けること。「自分のため」という自我の動機を手放し、「神のため・人のため」として善を行い続けることで、自我が徐々に浄化されていきます。

タオが説く「徳」の実践、孔子の「仁義礼智信」の五常、孟子の「仁義礼智」の四端——これらはすべて、善行を通じた浄化の実践として位置づけることができます。

善行は外側の行為だけではありません。内側の動機を清めていくこと——自我から来る動機に気づき、善の方向へ向き直すこと——がその本質です。

5.懺悔・反省による浄化と真我への気づき

また懺悔(ざんげ)、反省も心を浄めます。

人は、真我・神・根源意識を感じていると、罪を感じることができます。それ故に、古来より自己の罪を認め反省することが推奨されています。

言い換えると、自らの罪・至らない点を自覚し懺悔し反省できるのは、無意識のうちに真我・神・宇宙意識・根源意識を感じ、ているからなんですね。

で、この性質を霊性といっています。

真我、根源意識、神、大霊といった究極の意識を信じることができていると、「霊性」が無意識のうちに作動して、自らの内に罪・至らない点を深く感じさせて、懺悔反省へと至らせます。

懺悔反省は、神、真我、宇宙意識を感じる第一歩です。

真の懺悔・反省の根底には霊性がある

懺悔・反省は、人から指示されて行うものではなく、自らの良心にしたがって自発的に行うようになるのが望ましいわけですね。

で、これが本当の意味での懺悔・反省です。霊性が発動し、真我・神へと向かわせます。

真の懺悔・反省によって、神・根源意識を無意識のうちに感じることと同時に、神・根源意識から浄化のエネルギーが恩寵のように降りそそぎ、実践者の心を浄めます。

懺悔・反省の重要性

懺悔・反省・悔い改めは、神・真我を感じ神・真我から心の浄化の恩寵にあずかる実践ともいえます。

それ故に、古来より自己の罪を認め反省することが推奨されています。懺悔・反省は、真我・神・宇宙意識を感じる第一歩でもあります。

懺悔・反省は、神・真我、あるいは霊性がわかりにくいと感じている方には必須の実践行になると思います。

霊性に由来する「自己否定感」は大切なサイン

ところで最近では、自己否定感を改めて、自己肯定感を高めようという向きもあります。

ですが、自己否定感の中には、他人と比較して生じている「劣等感」としての自己否定感のほかに、霊性に由来している自己否定感があります。

それはどういう場合かといえば、無意識のうちに、神、宇宙、お天道さまといった崇高な存在を感じて、その存在からみて自分の至らなさを実感、痛感し、罪の気持ちにとらわれている場合です。

このような自己否定感もあります。

で、この手の自己否定感は、その本質は「懺悔、真の反省、悔い改め」になります。

この手の自己否定感を抱いている方は、絶対的な存在に対して額づく謙虚さも持ち合わせているため、神、真我、宇宙意識を求める実践に適性があることが多くなります。

霊性に由来する自己否定感は、真我開眼の可能性を示すサインだったりします。

各宗教などにおける心の浄化と懺悔反省

心を浄めることは世界中の宗教に組み込まれています。

一般的には、反省、改心、お天道様に恥じないなどの素朴な言い方をされています。素朴なんですが的を射ています。

仏教では「懺悔(ざんげ)・布薩(ふさつ)・慚愧(ざんき)・戒」として説かれます。自己の心を深く洞察し、罪や執着を認め、清めていく実践です。

「信(サッダー)」ともいっています。信は単に信じるという意味ではなく「心を澄ませること」が本義です。

ヨーガでは「シャウチャ(清浄)」として、ヤマ・ニヤマ(戒律)の実践として説かれています。

キリスト教では「悔い改め(メタノイア)」「回心(かいしん)」として説かれます。単なる反省や後悔ではなく、自分の内側を深く見つめ、神の前で自分の罪を認め正直になることです。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見るであろう」(マタイ5章8節)

このイエスの言葉は、心を浄める実践が真我体験・見神体験への土台となることを端的に示しています。

また言葉化されているもの以上に深い意味や実践があることもわかるかと思います。

3. あるがまま——明け渡し・慈悲・禅定

探し求める力みを手放し、ただ在る状態に委ねること——これが「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」です。

アプローチは大別して4つあります。

  1. あるがまま、いまここ、明け渡し
  2. 観察
  3. 慈悲
  4. 禅定・サマディ

1.「あるがまま」と「いまここ」「明け渡し」は同じ

自我の主張をやめ、ただそこに在る(あるがまま)

今の瞬間にある(いまここ)

自分の感情や考えや執着を手放し、神・真我・根源意識にすべてを委ねる、ただ見守る——これが明け渡しの本質です。

いずれも同じことを言っています。

「あるがまま」は、何もしない自分の様子から表現。

「いまここ」は、時間ゼロの感覚を踏まえた表現。

「明け渡し」は、真我を意識した表現。

表現の違いですね。自分にとって馴染む表現を採用すればいいでしょう。

「あるがまま」は「あきらめ」「虚無」ではない

明け渡しは「諦め」ではありません。「犠牲精神」や「虚無」でもありません。

そのようなとらえ方は、宗教教理を誤って理解した考えや思いであったり、能動的なDoとしての解釈になります。

そのような思いは横に置いて、また自分の小さな計らいを手放して、「ただある」という有り様になることですね。

これが「明け渡し」「神に委ねる」ということでもあります。

言葉で理解すると間違えやすい

「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」は、言葉で理解すると、諦めや犠牲的精神、虚無に向かわせることが往々にして出てきます。

「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」は、厳密にいえば非言語領域(言葉で解釈しないで体感で理解する領域)です。

実践を通して勘所が腑に落ちる性質です。

最初は、言葉を理解して行うところから始まりますが、言葉を離れた有り様であることを知っておくのがいいですね。

で、言葉を離れた有り様が腹落ちすることで、「霊性」に由来していることがわかってくるようになります。

2.観察も本質は「あるがまま」

観察瞑想(ヴィパッサナ)、自己観察も、実のところ「あるがまま」「明け渡し」と本質は同じになります。

自らが「観察する(Do)」のではなく、「観察が起きる(Be)」というのが本当の観察になります。

この辺りの要領は、実際に瞑想を繰り返していくなかでわかってきます。

解離性のメタ認知的なやり方はよくない

また、「自分から離れた場所に視点を設けて観察する」という客観視(メタ認知)のやり方はやってはいけません。

客観視(メタ認知)のやり方は、意識を二分すること(解離)を引き起こし、脳性疲労などを招きます。また情緒や性格を不安定にするおそれがあります。

感受力とは別の場所から見ることではなく、気づきそのものに根ざしていることです。

観察は努力して行うものではありません。力んで「観察しよう」とすると、それ自体が思考になってしまいます。

むしろ、気づいているという自然な状態(やわらかい状態)にただ留まるように行うことが大切です。

3.慈悲・愛・善と「あるがまま」

「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」という有り様は、中立的な姿勢にもなりますが、慈悲・愛とも関連することがわかってくるようになります。

慈悲・愛は、垣根のない人類愛、博愛、全生命を慈しむ心です。

ここまで崇高な心でなくても、やさしさ、やわらかさ、あたたかさ、軽やかさ、ほほえむ感じ、ハートフルさといった「やさしい」身体感覚をともなった心で、また中立の心で、「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」するのは、的を得たやり方にもなります。

やさしさ、やわらかさ、あたたかさ、軽やかさ、ほほえむ感じというのは、実は善や徳の本質です。霊性ですし、真我・神・宇宙意識が源泉の心になります。

最初からこの有り様でできる方は少ないかもしれませんが、いずれこの有り様から行うようにできると、「あるがまま」の浄化パワーも高まります。

祈り・慈しみの瞑想

祈りとは、慈悲・愛を切り口にして真我・根源意識に気づき、開かれていく道になります。

慈しみの実践を続けると、ハートが開かれ、真我への気づきが起きやすくなります。特定の宗教の形式にとらわれる必要はありません。心を澄ませて、くつろぎ、真我・根源意識のささやき・声・印象を感じようとする——それが祈りの本質です。

4.サマディ・禅定

なおサマディ(三昧)にいたることで「あるがまま」を実現するアプローチもあります。

サマディ(三昧)とは、観察者・観察対象という2つが一つに溶け合った状態です。いわゆる「ワンネス」です。仏教では禅定(ぜんじょう)といっています。

主にウパニシャッド、仏教、ヨーガで説かれています。キリスト教では「合一」といっています。

真我を対象にしたサマディ

サマディ・禅定・ワンネスに至る方法には、対象に集中して一体感が生じるやり方のほか、ウパニシャッドでは真我(アートマン)に集中することでサマディが起きるやり方を伝えています。

ウパニシャッドでは次のように説かれています。「アートマンのみを真の場所として念想(集中)すべし」「アートマンを念じてアートマンと合一することで、真理となって解脱する」

真我そのものに意識を向け続けることで、真我との合一が起きるという実践です。

自然に起きるサマディ

これは「自然にサマディが起きる」というタイプのサマディの可能性があります。

いわゆる法雲三昧(ダルマ・メーガ・サマーディ)やサハジャ・サマーディといった無為自然なサマディの可能性も示唆しています。

ちなみに20世紀にクンダリーニ体験をしたゴーピ・クリシュナは、自然にサマディが起きたことを著書で述べています。

恩寵をもたらす「あるがまま」

「あるがまま」「明け渡し」「いまここ」ができるようになると、真理・真実・真我・神を求める心が無意識のうちに霊性を作動させて、より大きな働き(根源意識、恩寵)が流れ込む余地が生まれます。

これを「恩寵(おんちょう)」といっています。向こうから訪れる、流れ込んでくる。

このときに感じるのが慈悲や愛、善の感覚だったりします。意識の拡大を感じたり、人によってはこの時点でプレゼンスや一瞥体験が起きることもあります。

「あるがまま」は、実のところ生命力にあふれる生き生きとした実践になります。決して否定的、後ろ向き、あきらめではないんですね。

各宗教などにおける「あるがまま・明け渡し」

この「あるがまま」「明け渡し」は、古今東西の伝統でさまざまな言葉で語られています。

一般的には「メタ認知」「超意識」といわれています。しかしこれらは意図的に行う(Do)になりやすく、解離性の意識(意識の二分化)を生み出すいため注意が必要です。いかにして「あるがまま(Be)」「非言語」的に行うのかが重要です。

仏教では「あるがまま」「いまここ」「如実知見」「観察瞑想(ヴィパッサナー)」といっています。内面に起こる思考・感情・感覚をただ観察し、それに巻き込まれずに気づき続けます。

浄土真宗では「他力」、老子は「無為自然」、カーライルは『サーター・リサータス』で「無関心の中心(Centre of Indifference)」と呼んでいます。

新プラトン主義のプロティノスは「テオリア(観照)」といい、「ヌース(直観的理性)」によって観照(あるがままに観る)ことで「一なるもの(真我)」に達しています。

キリスト教では、「明け渡し」「神にゆだねる」といっています。

「だれでもわたしについてきたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」(マタイ16章24節)

 

「野の花がどのように育つのか、よく見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。(マタイ6章28節)

このイエスの言葉は、イエスという人物に追従するのではなく、「キリスト精神」に従うこと、つまり、神に明け渡す、あるがままを指しています。

重要なのは、あるがまま・明け渡しは「観察する」「識別する」ことと同時に起きているという点です。

無自覚のうちに観察しながら「あるがまま」「明け渡す」、無自覚のうちに識別しながら「あるがまま」「明け渡す」——これらは一体となって進んでいきます。

4. 感受力——気づき・自覚力

感受力とは、内面に起こる動きを感じ取る力です。念(気づき)、観察、自覚力、洞察力——ともいいます。

具体的には、心に生じる考え(思考)・思い(感情)を鋭敏に感じ取る力をいいます。また実践上では、身体の感覚、動作にも気づくを通して感受力を高めていきます。

原始仏教(テーラワーダ仏教)に伝わる四念処(しねんじょ)とは、身・感覚・心を対象にして、この感受力を高めていく実践になります。

感受力は実践の基盤

感受力は、これ自体を高めていくよりも、「懺悔・反省」「あるがまま」「善悪を識別する」など、5つのポイントがセットになって実践されていくようになります。

たとえば、懺悔において自らの行いを反省するとき、過去に行ったさまざまなことを思い出して深く深く自己を省みるときに、感受力が不足していると、表面的かつ通り一辺倒な浅い反省になってしまいがちです。

自らの非を深く感じ入るには、感受力が不可欠です。

また観察瞑想において「あるがまま」としていても、「あるがままに観る対象」を感じ取ることができなければ、上辺だけの観察・あるがままになってしまいます。感受力があるからこそ、心に生じる微細な思考や感情をキャッチすることができます。

「善悪を識別」する際も、鋭敏に感じ取る「感受力」がなければ、識別できないままスルーしてしまうことも出てきます。善悪の識別においても感受力は不可欠です。

感受力は、実践上の要諦の一つですね。

真我に気づく手がかりが感受力

懺悔・反省、あるがまま・観察、善悪の識別において、思考・感情・感覚を鋭敏に気づくこと——感受力——これが真我への入り口になります。

この鋭敏性は、観察しているときに、やがて思考や感情の背後にある「何か」を感じるようになったりします。この「何か」が真我への手がかりになります。

感受力が高まると、内面の微細な動きがわかるようになります。これが次の「智慧(識別)」の土台となります。

各宗教などにおける「感受力」

一般的には、自覚力注意力といわれています。

伝統的な宗教では「感受力」を取り上げてきちんと説明しているのは少ないか無かったりします。

テーラワーダ仏教の四念処における念(サティ:気づき)は、気づき(感受力)を強くする・鋭敏にすることの大切さを説いています。

5. 識別力——善と自我を見分ける・真我への理解力

識別力とは、善・真我・神から来る動きと、自我・エゴから来る動きを見分ける力です。智慧ともいいます。感受力が「気づく力」であるとすれば、識別力は「見分ける力」です。

アプローチは大別して2つあります。

  1. 善悪の識別力
  2. 真我の理解力

1.善悪の識別力

心に浮かぶ考えや気持ちが、神から来るのか(善なのか)、自我から来るのか(邪なのか)を見分けることで、真我・神の意識に鋭敏になっていきます。

たとえば、これはイグナチオの霊動弁別になりますが、

深い平安・純粋な喜び・神への熱意——これらは「神・善・真我から来る動き(慰め)」

 

不安・混乱・焦り・執着・自己顕示欲——これらは「自我・エゴから来る動き(荒み)」

このように心、思考、感情を分別していきます。内面に二種類の動きがあることが感じられるようになります。

日常的に自分の心を観察し、識別することは、内面に起こる動きを観察し、それが神へ向かわせるものか、神から離れさせるものかを見分ける訓練といえます。

霊性を高める「識別力」

識別力を鋭敏にしていくことは、いわば霊性の感性を高める訓練ともいえます。

真我(善、神、根源意識)から来る動きを感じ取る感性が磨かれるほど、真我体験は近くなります。

識別の感性は一朝一夕には育まれません。日々の観察の積み重ねの中で、少しずつ鋭くなってまいります。

2.真我の理解力~ギャーナヨーガ

真我がもたらす智慧には、「善悪を識別する知性」のほかに、「真我を理解する知性」があります。

真我がどういうことなのかを理解する知性を育むのが、インドに伝わる「ギャーナヨーガ(智慧の道)」になります。

「智慧の道(ギャーナヨーガ)」では、聖典を読んだり、覚者の話しを聞くことで、真我がどういうものかを洞察していきます。

臨済宗の禅では、公案を解くことで見性する(真我体験をする)と言われています。現代では公案よりも、ギャーナ・ヨーガ的に取り組むことがおすすめになります。

覚者の話しを聞いたり、お話しをすることで、真我がどういうものかが感じられる、理解できるようになり、この延長に見性が起きる(真我体験が起きる)ことが出てきます。

各宗教における「識別力」

この識別の実践は、古今東西でさまざまな言葉で語られています。

イグナチオ霊操の「識別(霊動弁別)」——神から来る動きと、自我から来る動きを見分ける訓練。

仏教の「慚愧(ざんき)」——悪いことはヤバイ、マズイと本能的に感じる良心。善悪を見分ける良心。

原始仏教の「択法覚支(ちゃくほうかくし)」——真理と非真理を選び分ける智慧。この場合の真理とは善の心。つまり善悪を見分ける慚愧(ざんき)と同意。

陽明学の「良知(りょうち)」——自己の心を常に観察し、良知から来る声と欲望・エゴから来る声を識別して、良知に従った行動を選び取るようにします。

ウパニシャッドの「ネーティ・ネーティ(Neti Neti)」——「これは本当の私(宇宙の根源意識)ではない・個我としての私である」と識別しながら、真我(神)に至る実践。

テーラワーダ仏教の「観察瞑想」「気づきの瞑想」——内面に起こる思考・感情・感覚をただ観察し、それに巻き込まれずに気づき続けていきますが、観察の背後には善悪を無意識的かつ本能的に識別しています。

「自己観察」も「識別」を含んでいます。自分の心を観察し、それが正しいのか、エゴ(個我)かる来る狭い心なのかを見極めていく。

これらはすべて「真我に近いほど、善悪の識別が自然に鋭くなる」という原理があります。このことに関して、各宗教などでさまざまな説明がされています。

真我体験を招く5つのポイントは連動している

この5つの実践——心を浄める・発心・あるがまま・感受力・智慧——は、それぞれが独立した技術ではなく、一つの実践の異なる側面です。

心を浄めることで感受力が育ち、感受力が高まると識別(智慧)が鋭くなり、識別が深まるほど明け渡しが自然になります。

これらは螺旋状に深まってまいります。そしてその根底にあるのが、神・真我・根源意識を本心から求める発心です。

真我は「得る」ものではなく、すでにそこにあるものに「気づく」ものです。

この5つの実践は、真我を手に入れるための技術ではなく、真我への気づきを妨げているものを静かに取り除いていく道にほかなりません。

体験者にみる「あけわたし」

浄土真宗でいう本当の意味での「他力」とは、自分の力によってではなく、神の恩寵によって変えられてしまうという体験であり、「明け渡し」を続けている中で訪れます。

カーライルはあらゆる葛藤が溶けてなくなり、空っぽになった瞬間「より高い力によって自己否定(無我)が起こった」と記しています。

見神体験マニュアルの「霊操」を著したイグナチオは、カルドネル川辺で「大いなる照明(見神体験)」が起きていますが、これは長期の修行と苦悩の末に「もはや自分の力でどうにかしようとする力み」が尽き果てすべてが委ねられた状態の中で訪れたものでした。

まとめ

真我体験——一瞥体験・見性体験・見神体験とも呼ばれる、宇宙の根源意識・真我への気づき——は、古今東西の伝統が一致して指し示す5つのポイントによって起きやすくなります。

1. 求める——真理・真我・神を心底求める心(発心・菩提心・求道心)が、すべての出発点です。霊性があるからこそ真我を求める。この「聖なる求道心」こそが、真我の道を歩む原点です。

2. 浄める——認知を整え、善行を重ね、懺悔・反省を深めることで、真我を覆っている煩悩・執着・自我の鎧を取り除いていきます。心が浄まるほど、真我への気づきは起きやすくなります。

3. あるがまま——求める力みを手放し、ただそこに在ること。観察・明け渡し・慈悲・禅定——表現は異なっても、すべて同じ方向を指しています。「あるがまま」ができるようになると、恩寵が自然に流れ込んでくるようになります。

4. 感受力——心に生じる思考・感情・感覚を鋭敏に感じ取る力です。懺悔を深め、観察を細やかにし、識別を鋭くするための土台となります。感受力なくして、他のポイントは上辺だけになってしまいます。

5. 識別力——善・真我から来る動きと、自我・エゴから来る動きを見分ける力(智慧)です。この感性が磨かれるほど、真我体験は近くなります。

この5つは別々のステップではありません。どこから始めても、すべてがつながり合い、螺旋状に深まっていきます。そしてこれら5つの根底には「霊性」があります。愛・善・究極を本能的に求める神の趨勢——それが霊性であり、真我体験とは霊性の開眼・体現にほかなりません。

真我は「得る」ものではなく、すでにそこにあるものに「気づく」ものです。5つの実践は、真我を手に入れるための技術ではなく、真我への気づきを妨げているものを静かに取り除いていく道です。

どの実践が合っているかは人それぞれです。自分に合った入り口から始め、日々の生活の中で続けていく——その積み重ねの先に、真我との出会いがあります。

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