ハイヤーセルフ(真我)に気づく5つのポイント|一瞥体験・覚醒体験を招く実践

ハイヤーセルフとは、スピリチュアルの文脈で「本当の自分」「高次の自己」として語られる概念です。

インドのウパニシャッド哲学でいう真我(アートマン)、仏教でいう仏性・如来蔵、グノーシスでいう「内なる神」——これらはすべてハイヤーセルフと本質的に同じだったりします。

「ハイヤーセルフと繋がりたい」「ハイヤーセルフに覚醒したい」という願いは、真我体験・一瞥体験・見性体験を求める心と本質的に同じなんですね。

で、この記事では、ハイヤーセルフ(真我)への気づきが起きやすくなる5つのポイントをお伝えします。

実は私自身、30年以上前に見性体験をしています。今風にいえばハイヤーセルフがわかった・つながったといえます。こちらに私の一瞥体験などを書いています。

この体験を踏まえて瞑想会も主催していますが、真我体験、一瞥体験、見性体験、ハイヤーセルフが起きるアプローチを長年、研究してきました。

仏教・キリスト教・ヨーガ・老子・陽明学・スーフィズム・新プラトン主義などなど、古今東西の伝統が伝える実践を改めて見渡すと、あることに気づきます。

それは、すべての伝統が同じポイントをほぼ踏まえているということなんですね。

その共通のエッセンスを抽出し、体系化したものが、この記事でお伝えする「真我体験が起きるための5つのポイント」です。

今回ようやく整理してまとめることができたと思っています。ほとんど言及されていないスコトーマ(盲点)が「霊性」であることにも気づき、それも網羅しています。

5つのポイントは、どれか一つを極めれば良いというものではありません。また、順番通りに進む必要もありません。どこから始めても、すべてがつながり合いながら、スパイラル状に深まっていきます。

難解な哲学の話でも、特定の宗教の教義でもありません。実際の体験に根ざした、生きた実践の話です。

真我体験は、偶然によって起きるものではなく、実践の積み重ねによって起きやすくなるものだと思っています。

さらに、この体験は入り口であって、ここから深まりを見せていくようになります。

ここで紹介する方法が唯一無二という気持ちは全くありませんし、ほかにも有益なアプローチがあると思います。

一つの指針といいますか参考情報として、真摯に求めている方にとってお役に立てれば幸いです。

真我・ハイヤーセルフに気づく「ゆるっと瞑想会」はこちら

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ハイヤーセルフ(真我)に気づく5つのポイント

真我体験(現在ではハイヤーセルフに繋がる)には、一瞥体験、見性体験、見神体験などさまざまな名称が付いています。

が、宇宙の根源意識・創造主・ブラフマン(真我)がわかる、目覚めるための実践は、5つにまとめることができます。それは、

  1. 求める——【霊性の趨勢①求める・②祈り】
    ①真理・真我・ブラフマン・神を求める心、発心、発菩提心、求道心、精進、意欲、
    ②神への祈念、バクティ・ヨーガ、
  2. 浄める——【①善き認知・善行・②瞑想・祈り・③ヒーリング・④懺悔】
    ①善き認知・善き言動、カルマヨーガ、戒、清浄、信、②瞑想・祈り、
    ③天啓気療、セッション、
    ④懺悔、悔い改め、回心、反省、
  3. あるがまま——【①いまここ・②観察・③慈悲・④禅定】
    ①あるがまま、いまここ、明け渡し、神に委ねる、他力、無為自然、無関心の中心、
    ②観察瞑想(ヴィパッサナー)、自己観察、
    ③リラックス、慈悲、愛、善、
    ④サマディ
  4. 感受力——【気づき・自覚力】
    念(気づき)、観察、自覚力、洞察力
  5. 識別力——【①善と自我を見分ける・②真我への理解力】
    ①智慧、択法覚支、慚愧、良知、霊動弁別、ネーティ・ネーティ(Neti Neti)、
    ②ギャーナヨーガ

これら5つです。

5つのポイントは渾然一体としている

これらの5つは別々のステップではありません。実践の中では渾然一体となって同時に起きてきます。

また順番通りに進むものでもなく、どこから始めても、すべての要素がつながり合ってスパイラルに深まっていくようになります。

真我体験とは霊性の開眼・体現でもある

さらにいえば、これら5つの根底には「霊性(れいせい)」があります。霊性とは、愛、善、究極を本能的に求める神の趨勢(すうせい)です。

真我体験とは、霊性の開眼・体現とも言えるくらい表裏一体だったりします。

霊性(スピリチュアリティ)とは何か|瞑想実践に欠かせない感受性・善性・正見

1. 求める——真我・霊性の趨勢

真我・神・宇宙意識への気づきが起きやすくなるためには、まず「求める心」が必要です。といいますか欠かせません。求める心が土台になります。

真理・真実・真我を求める心は霊性の趨勢(すうせい)になります。「霊性」が原点になります。

アプローチには大別して2つあります。

  1. 真我を求める
  2. 神への祈り

①真我を求める心は原動力

求める心——高次の意識、真我、根源意識、善、愛を心底求める心——これが真我体験への道を開く原動力となります。

まずは高い意識や精神性を求める意欲があること。これが大切です。求道心でもあります。

言い換えると続けること、継続(精進)することでもあります。続けていく心の裏には、真理・真我・神・根源意識を求める心があります。

もし真摯に求める心が無ければ、スピリチュアルや超能力、意識のあり方(変性意識)、不思議現象などに興味を持ってしまい、横道にそれてしまいます。

本当に「求める心」があることで、無意識のうちに真我・神・宇宙意識に向かうようになってきます。

瞑想では発心が大切|自燈明・法燈明の意味 瞑想には意欲・熱意が欠かせない|続けるために必要な精進力とは

霊性から生じる「真我を求める心」

求める心はとても大切です。

性があるからこそ、神の本体である真我を求め、宇宙の根本原理(ブラフマン)と一体になろうとしたがるんですね。

このことは意外と見落とされています。

エゴからは「真我を求める心」は生じにくい

見落とされているため、本当に真我・神・根源意識を求める方は少なくなっています。

実際は、霊性ではなくエゴ・欲望から生じて、スピリチュアルに関心を持ってしまっているケースが多くなっています。

つまり、超能力、霊能力、特異な意識状態、霊的現象に惹かれてしまうことなんですね。で、これらのみに惹かれると、道を外して天狗の世界などの低い境涯へと行ってしまいます。

ブッダの時代にいた六師外道らも同じです。

本心から「真我を求める」なら霊性は動いている

霊性が無意識のうちに動いているからこそ、真我・神・根源意識を求めるんですね。

言い換えると、無意識のうちに真我を感じているからこそ根源意識に立ち戻ろうとするわけですね。で、この立ち戻ろうとする趨勢を「霊性(れいせい)」といい、求道道が生じてきます。

真我を求める「聖なる求道心」こそ真我の道を歩む原点であり、潜在的に既に体得体現できていることも示唆しています。

真のスタートラインに立つことは非常に重要です。真の求道心があれば、いつか必ず真我体験をするからです。

②神への祈り(バクティヨーガ)と求める心

バクティヨーガは、神(真我、根本意識)への純粋な愛と帰依によって真我・ブラフマンと一体化する道です。

愛・献身の深まりとともに、「愛する者」と「愛される者」の区別が溶け、自我が自然に弱くなり、ある時点で愛そのものになります。

スーフィズムのルーミーが「愛こそが神との合一への究極の道」と詩に刻んだのは、このバクティの本質を表現したものですね。

本心から神・真我を求める心が、体験への扉を開く原動力となります。

祈りは、決して宗教的な行為ではなく、真我に開眼する歩みだったりします。

祈りの効果とやり方|心をきよめ、霊性・真我に気づき、自分と周囲を明るくする実践

各宗教などにおける求める心

一般的には、「意欲・向上心」といわれています。中でも「世の中のために尽くしたい」「人々のために貢献したい」といった利他の思いから出ている意欲や向上心は、根底に霊性がありますので、真我を求める心に通じるものがあります。

それ故に、高次意識を体得体現する文脈では、利他の心、慈悲、隣人愛が重視されるわけですね。

仏教では「発心(ほっしん)・菩提心(ぼだいしん)」といいます。真理真実を求める決意、仏道に入る発心のことです。

あるいは「精進(しょうじん)」もそうですね。精進は、頑張ることではなく続けるが本義になります。しかも真理、真実、高い精神性を求めるために、修行実戦を続けることをいい、この裏側には「求める心・意欲」があります。

キリスト教では単に儀礼として祈るのではなく、本心から神を求め、神のための手足となることを願い、聖霊を求めて祈る——この姿勢が体験の土台となります。

探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」(マタイ7章7節)

「山上の垂訓」で有名なこのイエスの教えは、求めよ、さらば与えられんという言葉として知られています。

この言葉は発心・菩提心を指していますね。真剣に求める心があってこそ、高い宗教精神がもたらされるようになります。

発心・菩提心・回心・求道心——言葉は異なっても、本質は同じです。

2. 浄める——善き認知・瞑想・ヒーリング・懺悔

真我・神・宇宙意識への気づきが起きやすくなるためには、心の土台を整えることも重要です。それが心を浄めることです。

アプローチは大別して5つあります。

  1. 善行(カルマヨーガ)・認知の善化
  2. 瞑想・祈り
  3. 真我系ヒーリング
  4. 懺悔・反省

心の浄化による真我への気づき

心の浄化は、どの伝統においても、真我への道の最初の段階として説かれています。

言動を適切にし、認知を整えるといったカルマヨーガ(善行・積徳行)は古来より世界中の宗教で言われています。善の性質は、真我が放つ性質であるため、善・徳を切り口に向かう歩みがこの道です。

また、瞑想などで心を落ち着かせることで心を浄めていきます。天啓気療Sさんのセッションを併用することで、心の浄化は促進されます。

現代では敬遠されがちな懺悔・悔い改めも、人間の無意識のうちで作用している霊性を巧に使って心を浄め、真我開眼を実現するやり方だったりします。

心が浄まることで、純粋意識である真我・神・宇宙意識に気づきやすくなります

心を濁す思考・感情のエレメンタル

人は、善いことでも悪いことでも、善い感情でも悪い感情でも、それが強ければ強いほど、エーテル次元やアストラル次元に強固な想念物質(エレメンタル)を形成します。

で、これが心を濁らせ、真我、神、根源意識をわかりにくくさせてしまいます。

日常の生活においては、思考を強めすぎない、感情を激しくさせないといった注意も必要です。

これと関連して、難解で答えがわからない・わかりにくい哲学、体験の無い観念的な思想やスピリチュアル、想像によるスピリチュアルなどに強く興味を持って関わるのもよくありません。

いずれのケースにおいても、想念物質(エレメンタル)を強固に形成して、真理・真実をわかりにくくしてしまいます。いわゆる「マインドが強い」タイプにしてしまいます。

①善行(カルマヨーガ)による心の浄化

善行の本質とは、行為を通して認知を適切にする(善くする)」ことになります。これをインドのヨーガの文脈ではカルマヨーガ(行為の道)」といっています。

真我には善の性質があります。この善とは文言化された教えとしての善ではありません。

真我がもたらす「あたたかさ、やわらかさ、明るい感じ、すがすがしさ、凛とした感じ、力強さ」などが渾然一体となった体感が「善」です。根底には霊性が関連しています。

善行によって、善の感覚・体感が生じることで真我に開眼していく道です。が、そのほとんどは認知を浄化することになります。

結果への執着を手放し、神への奉仕として行為し続けること。「自分のため」という自我の動機を手放し、「神のため・人のため」として善を行い続ける。このようにし続けていくことで認知が善くなり、自我が徐々に浄化されていきます。

タオが説く「徳」の実践、孔子の「仁義礼智信」の五常孟子の「仁義礼智」の四端——これらはすべて、善行を通じた浄化の実践として位置づけることができます。

善行は外側の行為だけではありません。内側の動機を清めていくこと。自我から来る動機に気づき、善の方向へ向かっていくことがその本質です。

で、善の性質を踏まえれば、教科書的な道徳や厳しく硬い教えのような有り様では決してありません。

②瞑想・祈りによる心の浄化

また心を浄化するパワフルな実践としては瞑想祈りがあります。

次の「あるがまま」と関連しますが、瞑想でおすすめなのは「あるがまま」系の瞑想です。

あるがまま、いまここ、明け渡し、気づき、観察いった瞑想をしていると、思考や感情で形成されたエレメンタル(想念体)は、自然に脱落、溶解していくようになります。

これがエソテリックな文脈における瞑想の効果です。瞑想は、エレメンタル(想念体、想念物質)を解放させていく伝統的な方法になります。

瞑想は心を解放し浄化することが半分以上の行為だったりします。

祈りも同じです。神(真我、根源意識)を信じて祈ることで、そこからエネルギーが流入してくるようになります。

これが恩寵です。

祈りは恩寵により心を浄める行為ともいえます。

③真我系ヒーリングによる心の浄化

あるがまま系の瞑想をしていると、想念物質(エレメンタル)は自然に脱落、溶解していくようになります。

しかし情報化社会の現代では、瞑想だけは力不足の場合が多々あります。

そこで天啓気療Sさんのセッションといった真我系ヒーリングを、瞑想と併用して受けるのがおすすめです。

天啓気療とセッションによって、意識の深い部分から心を浄化していくことが可能です。これは現代における洗礼に相当し、恩寵(おんちょう)になります。

一般的なヒーリングと天啓気療・セッションとの違い|加える・共鳴・除去で比較

④懺悔・反省による浄化と真我への気づき

また懺悔(ざんげ)、反省も心を浄めます。

人は、真我・神・根源意識を感じていると、罪を感じることができます。それ故に、古来より自己の罪を認め反省することが推奨されています。

言い換えると、自らの罪・至らない点を自覚し懺悔し反省できるのは、無意識のうちに真我・神・宇宙意識・根源意識を感じているかなんですね。

で、この性質を霊性といっています。

真我、根源意識、神、大霊といった究極の意識を信じることができていると、「霊性」が無意識のうちに作動して、自らの内に罪・至らない点を深く感じさせて、懺悔反省へと至らせます。

懺悔反省は、神、真我、宇宙意識を感じる第一歩です。

真の懺悔・反省の根底には霊性がある

懺悔・反省は、人から指示されて行うものではなく、自らの良心にしたがって自発的に行うようになるのが望ましいわけですね。

で、これが本当の意味での懺悔・反省です。霊性が発動し、真我・神へと向かわせます。

真の懺悔・反省によって、神・根源意識を無意識のうちに感じることと同時に、神・根源意識から浄化のエネルギーが恩寵のように降りそそぎ、実践者の心を浄めます。

懺悔・反省の重要性

懺悔・反省・悔い改めは、神・真我を感じ神・真我から心の浄化の恩寵にあずかる実践ともいえます。

それ故に、古来より自己の罪を認め反省することが推奨されています。懺悔・反省は、真我・神・宇宙意識を感じる第一歩でもあります。

懺悔・反省は、神・真我、あるいは霊性がわかりにくいと感じている方には必須の実践行になると思います。

霊性に由来する「自己否定感」は大切なサイン

ところで最近では、自己否定感を改めて、自己肯定感を高めようという向きもあります。

ですが、自己否定感の中には、他人と比較して生じている「劣等感」としての自己否定感のほかに、霊性に由来している自己否定感があります。

それはどういう場合かといえば、無意識のうちに、神、宇宙、お天道さまといった崇高な存在を感じて、その存在からみて自分の至らなさを実感、痛感し、罪の気持ちにとらわれている場合です。

このような自己否定感もあります。

で、この手の自己否定感は、その本質は「懺悔、真の反省、悔い改め」になります。

この手の自己否定感を抱いている方は、絶対的な存在に対して額づく謙虚さも持ち合わせているため、神、真我、宇宙意識を求める実践に適性があることが多くなります。

霊性に由来する自己否定感は、真我開眼の可能性を示すサインだったりします。

各宗教などにおける心の浄化と懺悔反省

心を浄めることは世界中の宗教に組み込まれています。

心を浄める

仏教では「慚愧(ざんき)・戒」として説かれます。自己の心を深く洞察し、罪や執着を認め、清めていく実践です。

また「信(サッダー)」の実践も推奨されています。「信」とは真理・真実を信じるという意味だけでなく、「心を澄ませること」が本義です。

ヨーガでは「シャウチャ(清浄)」として、ヤマ・ニヤマ(戒律)の実践として説かれています。ヴァガバットギーターには行為(善行)による「カルマヨーガ」が伝承されています。

キリスト教では「回心(かいしん)」といっています。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見るであろう」(マタイ5章8節)

このイエスの言葉は、心を浄める実践が真我体験・見神体験への土台となることを端的に示しています。

また言葉化されているもの以上に深い意味や実践があることもわかるかと思います。

懺悔・反省

懺悔による心の浄化もいくつかあります。

一般的には、反省、改心、お天道様に恥じないなどの素朴な言い方をされています。素朴なんですが的を射ています。

仏教では「懺悔(ざんげ)・布薩(ふさつ)」といっています。反省を繰り返して心を澄ませる行為です。

キリスト教では「悔い改め(メタノイア)」として説かれます。単なる反省や後悔ではなく、自分の内側を深く見つめ、神の前で自分の罪を認め正直になることです。

3. あるがまま——明け渡し・慈悲・禅定

探し求める力みを手放し、ただ在る状態に委ねること——これが「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」です。

アプローチは大別して4つあります。

  1. あるがまま、いまここ、明け渡し
  2. 観察
  3. 慈悲
  4. 禅定・サマディ

①「あるがまま」と「いまここ」「明け渡し」は同じ

自我の主張をやめ、ただそこに在る(あるがまま

今の瞬間にある(いまここ

自分の感情や考えや執着を手放し、神・真我・根源意識にすべてを委ねる、ただ見守る——これが明け渡しの本質です。

いずれも同じことを言っています。

「あるがまま」は、何もしない自分の様子からの表現。

「いまここ」は、時間感覚を踏まえた表現。

「明け渡し」は、真我を意識した表現。

「そのまんま」といった有り様に対して、どこにフォーカスして表現しているかの違いですね。自分にとって馴染む表現を採用すればいいでしょう。

瞑想ではリラックスとあるがままの気づきが大切|うまくいかない理由も解説

「あるがまま」は「あきらめ」「虚無」ではない

あるがまま・明け渡しは「諦め」ではありません。「犠牲精神」や「虚無」でもありません。

そのようなとらえ方は、宗教教理を誤って理解した考えや思いであったり、能動的なDoとして解釈(マインド的に解釈)した取り組みになります。

そのような受け止め方は不適切です。

マインド的な解釈は横に置いて、自分の小さな計らいを手放して、「ただある」という有り様になることですね。

これが「明け渡し」「神に委ねる」ということでもあります。

言葉で理解すると間違えやすい

「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」は、言葉で理解すると、諦めや犠牲的精神、虚無に向かわせることが往々にして出てきます。

仏典を文字通りに理解すると、大概、諦め、虚無に解釈して生命力を損ない、枯れ木のようになってしまいます。これはおすすめできません。

「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」は、非言語領域(言葉で解釈しないで体感で理解する領域)です。

実践を通して勘所が腑に落ちる性質です。

最初は、言葉を理解して行うところから始まりますが、本質は言葉で理解しない有り様であることを知っておくのがいいですね。

で、言葉を離れた有り様が腹落ちすると、あるがままとは「霊性」に由来し、生き生きとしていることがわかってくるようになります。

また好き勝手という感覚でもないこともわかってくるようになります。

適切にできてくることで、「あるがまま」の本当の意味がわかるようになり、本当の意味での自由がわかってくるようになります。

②観察も本質は「あるがまま」

観察瞑想(ヴィパッサナ)、自己観察も、実のところ「あるがまま」「明け渡し」と本質は同じになります。

自らが「観察する(Do)」のではなく、「観察が起きる(Be)」というのが本当の観察になります。

この辺りの要領は、実際に瞑想を繰り返していくなかでわかってきます。

観察瞑想の意味と効果|気づきの瞑想のメリットと本質 観察瞑想のやり方|体・感覚・心の観察で大事なこと

解離性のメタ認知的なやり方はよくない

ちなみに、「自分から離れた場所に視点を設けて観察する」という客観視(メタ認知)のやり方はやってはいけません。

客観視(メタ認知)のやり方は、意識を二分すること(解離)を引き起こし、脳性疲労などを招きます。また情緒や性格を不安定にするおそれがあります。

感受力とは別の場所から見ることではなく、気づきそのものに根ざしていることです。

観察は努力して行うものではありません。力んで「観察しよう」とすると、それ自体が思考になってしまいます。

むしろ、気づいているという自然な状態(やわらかい状態)にただ留まるように行うことが大切です。

③慈悲・愛・善と「あるがまま」

「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」という有り様は、中立的な姿勢にもなりますが、慈悲・愛とも関連することがわかってくるようになります。

慈悲・愛は、垣根のない人類愛、博愛、全生命を慈しむ心です。

ここまで崇高な心でなくても、やさしさ、やわらかさ、あたたかさ、軽やかさ、ほほえむ感じ、ハートフルさといった「やさしい」身体感覚をともなった心で、また中立の心で、「あるがまま」「いまここ」「明け渡し」するのは、的を得たやり方にもなります。

やさしさ、やわらかさ、あたたかさ、軽やかさ、ほほえむ感じというのは、実は善や徳の本質です。霊性ですし、真我・神・宇宙意識が源泉の心になります。

最初からこの有り様でできる方は少ないかもしれませんが、いずれこの有り様から行うようにできると、「あるがまま」の浄化パワーも高まります。

慈悲の瞑想のやり方|体感・イメージ・言葉で行う実践のポイント

祈り・慈しみの瞑想

祈りとは、慈悲・愛を切り口にして真我・根源意識に気づき、開かれていく道になります。

慈しみの実践を続けると、ハートが開かれ、真我への気づきが起きやすくなります。

特定の宗教の形式にとらわれる必要はありません。心を澄ませて、くつろぎ、真我・根源意識のささやき・声・印象を感じようとする。それが祈りの本質なんですね。

祈りの効果とやり方|心をきよめ、霊性・真我に気づき、自分と周囲を明るくする実践

④サマディ・禅定

なおサマディ(三昧)にいたることで「あるがまま」を実現するアプローチもあります。

サマディ(三昧)とは、観察者・観察対象という2つが一つに溶け合った状態です。いわゆる「ワンネス」です。仏教では禅定(ぜんじょう)といっています。

主にウパニシャッド、仏教、ヨーガで説かれています。キリスト教では「合一」といっています。

真我を対象にしたサマディ

サマディ・禅定・ワンネスに至る方法には、対象に集中して一体感が生じるやり方のほか、ウパニシャッドでは真我(アートマン)に集中することでサマディが起きるやり方を伝えています。

ウパニシャッドでは次のように説かれています。「アートマンのみを真の場所として念想(集中)すべし」「アートマンを念じてアートマンと合一することで、真理となって解脱する」

真我そのものに意識を向け続けることで、真我との合一が起きるという実践です。

自然に起きるサマディ

これは「自然にサマディが起きる」というタイプのサマディの可能性があります。

いわゆる法雲三昧(ダルマ・メーガ・サマーディ)やサハジャ・サマーディといった無為自然なサマディの可能性も示唆しています。

ちなみに20世紀にクンダリーニ体験をしたゴーピ・クリシュナは、自然にサマディが起きたことを著書で述べています。

恩寵をもたらす「あるがまま」

「あるがまま」「明け渡し」「いまここ」ができるようになると、真理・真実・真我・神を求める心が無意識のうちに霊性を作動させて、より大きな働き(根源意識、恩寵)が流れ込ませるようになります。

これを「恩寵(おんちょう)」といっています。向こうから訪れる、流れ込んでくる。

このときに感じるのが慈悲の感覚だったりします。また「大いなる存在に守られている」感覚が起きることもあります。

「他力」とはこのことをいっています。他力とは人任せ、依存の意味ではありません。実に「恩寵の作用」を言い表した言葉だったりします。

さらに、意識の拡大を感じたり、人によってはこの時点でプレゼンスや見性体験、一瞥体験が起きることもあります。

「あるがまま」は、実のところ生命力にあふれる生き生きとした実践になります。天地一体となり神を感じる無作(むさ)だったりします。

決して否定的、後ろ向き、あきらめではないんですね。まして枯れ木、虚無は論外です。

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各宗教などにおける「あるがまま・明け渡し」

この「あるがまま」「明け渡し」は、古今東西の伝統でさまざまな言葉で語られています。

一般的には「メタ認知」「超意識」といわれています。しかしこれらは意図的に行う(Do)になりやすく、解離性の意識(意識の二分化)を生み出すいため注意が必要です。いかにして「あるがまま(Be)」「非言語」的に行うのかが重要です。

仏教では「あるがまま」「いまここ」「如実知見」「観察瞑想(ヴィパッサナー)」といっています。内面に起こる思考・感情・感覚をただ観察し、それに巻き込まれずに気づき続けます。

浄土真宗では「他力」、老子は「無為自然」、カーライルは『サーター・リサータス』で「無関心の中心(Centre of Indifference)」と呼んでいます。

新プラトン主義のプロティノスは「テオリア(観照)」といい、「ヌース(直観的理性)」によって観照(あるがままに観る)ことで「一なるもの(真我)」に達しています。

キリスト教では、「明け渡し」「神にゆだねる」といっています。

「だれでもわたしについてきたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」(マタイ16章24節)

 

「野の花がどのように育つのか、よく見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。(マタイ6章28節)

このイエスの言葉は、イエスという人物に追従するのではなく、「キリスト精神」に従うこと、つまり、神に明け渡す、あるがままを指しています。

重要なのは、あるがまま・明け渡しは「観察する」「識別する」ことと同時に起きているという点です。

無自覚のうちに観察しながら「あるがまま」「明け渡す」、無自覚のうちに識別しながら「あるがまま」「明け渡す」——これらは一体となって進んでいきます。

4. 感受力——気づき・自覚力

感受力とは、内面に起こる動きを感じ取る力です。念(気づき)、観察、自覚力、洞察力——ともいいます。

具体的には、心に生じる考え(思考)・思い(感情)を鋭敏に感じ取る力をいいます。また実践上では、身体の感覚、動作にも気づくを通して感受力を高めていきます。

原始仏教(テーラワーダ仏教)に伝わる四念処(しねんじょ)とは、身・感覚・心を対象にして、この感受力を高めていく実践になります。

感受力は実践の基盤

感受力は、これ自体を高めていくよりも、「懺悔・反省」「あるがまま」「善悪を識別する」など、5つのポイントがセットになって実践されていくようになります。

たとえば、懺悔において自らの行いを反省するとき、過去に行ったさまざまなことを思い出して深く深く自己を省みるときに、感受力が不足していると、表面的かつ通り一辺倒な浅い反省になってしまいがちです。

自らの非を深く感じ入るには、感受力が不可欠です。

また観察瞑想において「あるがまま」としていても、「あるがままに観る対象」を感じ取ることができなければ、上辺だけの観察・あるがままになってしまいます。感受力があるからこそ、心に生じる微細な思考や感情をキャッチすることができます。

「善悪を識別」する際も、鋭敏に感じ取る「感受力」がなければ、識別できないままスルーしてしまうことも出てきます。善悪の識別においても感受力は不可欠です。

感受力は、実践上の要諦の一つですね。

真我に気づく手がかりが感受力

懺悔・反省、あるがまま・観察、善悪の識別において、思考・感情・感覚を鋭敏に気づくこと——感受力——これが真我への入り口になります。

この鋭敏性は、観察しているときに、やがて思考や感情の背後にある「何か」を感じるようになったりします。この「何か」が真我への手がかりになります。

感受力が高まると、内面の微細な動きがわかるようになります。これが次の「智慧(識別)」の土台となります。

各宗教などにおける「感受力」

一般的には、自覚力注意力といわれています。

伝統的な宗教では「感受力」を取り上げてきちんと説明しているのは少ないか無かったりします。

テーラワーダ仏教の四念処における念(サティ:気づき)は、気づき(感受力)を強くする・鋭敏にすることの大切さを説いています。
選択なき自覚(クリシュナムルティ)

5. 識別力——善と自我を見分ける・真我への理解力

識別力とは、善・真我・神から来る動きと、自我・エゴから来る動きを見分ける力です。智慧ともいいます。感受力が「気づく力」であるとすれば、識別力は「見分ける力」です。

アプローチは大別して2つあります。

  1. 善悪の識別力
  2. 真我の理解力

①善悪の識別力

心に浮かぶ考えや気持ちが、神・真我・根源意識から来るのか(善なのか)、自我から来るのか(邪なのか)を見分けることで、真我・神の意識に鋭敏になっていきます。

たとえば、これはイグナチオの霊動弁別になりますが、

深い平安・純粋な喜び・神への熱意——これらは「神・善・真我から来る動き(慰め)」

 

不安・混乱・焦り・執着・自己顕示欲——これらは「自我・エゴから来る動き(荒み)」

このように心、思考、感情を分別していきます。内面に二種類の動きがあることが感じられるようになります。

日常的に自分の心を観察し、識別することは、内面に起こる動きを観察し、それが神へ向かわせるものか、神から離れさせるものかを見分ける訓練といえます。

霊性を高める「識別力」

識別力を鋭敏にしていくことは、いわば霊性の感性を高める訓練ともいえます。

真我(善、神、根源意識)から来る動きを感じ取る感性が磨かれるほど、真我体験は近くなります。

識別の感性は一朝一夕には育まれません。日々の観察の積み重ねの中で、少しずつ鋭くなってまいります。

こちらにも善悪の識別と霊性について書いています。

②真我の理解力~ギャーナヨーガ

真我がもたらす智慧には、「善悪を識別する知性」のほかに、「真我を理解する知性」があります。

真我がどういうことなのかを理解する知性を育むのが、インドに伝わる「ギャーナヨーガ(智慧の道)」になります。

「智慧の道(ギャーナヨーガ)」では、聖典を読んだり、覚者の話しを聞くことで、真我がどういうものかを洞察していきます。

臨済宗の禅では、公案を解くことで見性する(真我体験をする)と言われています。現代では公案よりも、ギャーナ・ヨーガ的に取り組むことがおすすめになります。

覚者の話しを聞いたり、お話しをすることで、真我がどういうものかが感じられる、理解できるようになり、この延長に見性が起きる(真我体験が起きる)ことが出てきます。

各宗教における「識別力」

この識別の実践は、古今東西でさまざまな言葉で語られています。

イグナチオ霊操の「識別(霊動弁別)」——神から来る動きと、自我から来る動きを見分ける訓練。

仏教の「慚愧(ざんき)」——悪いことはヤバイ、マズイと本能的に感じる良心。善悪を見分ける良心。

原始仏教の「択法覚支(ちゃくほうかくし)」——真理と非真理を選び分ける智慧。この場合の真理とは善の心。つまり善悪を見分ける慚愧(ざんき)と同意。

陽明学の「良知(りょうち)」——自己の心を常に観察し、良知から来る声と欲望・エゴから来る声を識別して、良知に従った行動を選び取るようにします。

ウパニシャッドの「ネーティ・ネーティ(Neti Neti)」——「これは本当の私(宇宙の根源意識)ではない・個我としての私である」と識別しながら、真我(神)に至る実践。

テーラワーダ仏教の「観察瞑想」「気づきの瞑想」——内面に起こる思考・感情・感覚をただ観察し、それに巻き込まれずに気づき続けていきますが、観察の背後には善悪を無意識的かつ本能的に識別しています。

「自己観察」も「識別」を含んでいます。自分の心を観察し、それが正しいのか、エゴ(個我)かる来る狭い心なのかを見極めていく。

これらはすべて「真我に近いほど、善悪の識別が自然に鋭くなる」という原理があります。このことに関して、各宗教などでさまざまな説明がされています。

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真我体験を招く5つのポイントは連動している

この5つの実践——心を浄める・発心・あるがまま・感受力・智慧——は、それぞれが独立した技術ではなく、一つの実践の異なる側面です。

心を浄めることで感受力が育ち、感受力が高まると識別(智慧)が鋭くなり、識別が深まるほど明け渡しが自然になります。

これらは螺旋状に深まってまいります。そしてその根底にあるのが、神・真我・根源意識を本心から求める発心です。

真我は「得る」ものではなく、すでにそこにあるものに「気づく」ものです。

この5つの実践は、真我を手に入れるための技術ではなく、真我への気づきを妨げているものを静かに取り除いていく道にほかなりません。

各伝統における5つのポイントの実践例

体験者にみる「あけわたし」

浄土真宗でいう本当の意味での「他力」とは、自分の力によってではなく、神の恩寵によって変えられてしまうという体験であり、「明け渡し」を続けている中で訪れます。

カーライルはあらゆる葛藤が溶けてなくなり、空っぽになった瞬間「より高い力によって自己否定(無我)が起こった」と記しています。

見神体験マニュアルの「霊操」を著したイグナチオは、カルドネル川辺で「大いなる照明(見神体験)」が起きていますが、これは長期の修行と苦悩の末に「もはや自分の力でどうにかしようとする力み」が尽き果てすべてが委ねられた状態の中で訪れたものでした。

他力——浄土真宗

浄土真宗の「他力」とは、自分の力(自力)ではなく、阿弥陀仏の本願力(仏の働き)によって救われるという立場です。

自分の計らい・努力・功徳によって真我に到達しようとする力みを手放し、ただ仏の働きに委ねる——この「明け渡し」の実践は、カーライルが「自己の消滅が起こった」と記した体験の構造と同じものを指しています。

無為自然——老子(タオ)

老子の「無為自然(むいしぜん)」は、作為を排し、あるがままの自然な流れに従うことです。

タオ(道)は自然に流れます。人間が作為・計らい・執着によって抵抗するとき、タオの流れから外れます。無為とは何もしないことではなく、自我の計らいを手放して、タオの流れに身を委ねることです。

選択なき自覚(クリシュナムルティ)

ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895〜1986)が説いた「選択なき自覚(Choiceless Awareness)」は、あらゆる方法・技法・体系を否定した実践もあります。

クリシュナムルティのやり方は、善悪の識別はなく、只管打坐に近いやり方です。

「対象選別なき、領域限定なき、除外なき観察」とは、観察する際に、良い・悪いという選択・判断・比較を一切加えず、「ただそのままを見る」としていきます。

これが選択なき自覚の核心であり、「真理は、そこへ通ずるいかなる道も持たない領域である」とクリシュナムルティが言っていたのは、まざに坐禅になります。

この実践は、真我体験というよりも、仏教で説く正真正銘の無我に至る禅のアプローチに近くなります。

霊操の識別(イグナチオ・デ・ロヨラ)

イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」における識別(霊動弁別)は、祈りの中で内面に起こる動きを観察し、それが神へ向かわせるものか、自我から来るものかを見分ける訓練です。

深い平安・純粋な喜び・神への熱意は「神から来る慰め」。不安・混乱・焦り・執着は「自我から来る荒み」——この二つを識別し、神の方向を選び取ることを繰り返します。

霊操の一日二回の「良心の究明(Examen)」——自分の内面に起きた霊の動きを一日の終わりに静かに振り返る実践——は、識別を日常生活に根ざした実践として体系化したものです。

良知の涵養・慎独(陽明学)

王陽明の陽明学における「慎独(しんどく)」は、一人のときでも自分の内面を慎み、良知(内なる真理・真我の声)に従う実践です。

自己の心を常に観察し、良知から来る声と欲望・エゴから来る声を識別して、良知に従った行動を選び取る——これが慎独の本質です。

で、良知、慎独を実践することで身についてくることを「涵養(かんよう)」といっています。

霊魂の上昇——プロティノスのアナゴーゲー

プロティノスは一者(真我)への道を「霊魂の上昇(アナゴーゲー)」と呼び、三段階に整理しました。

第一段階「浄化(カタルシス)」——倫理的な徳の実践・感覚的な欲望からの離脱・魂の浄化。

第二段階「観想(テオリア)」——ヌース(霊的知性・直観的理性)による内側の静かな観察。感覚的な世界への執着を手放し、内側を見つめ続ける。

第三段階「忘我(エクスタシス)」——ヌースの働きそのものを超えて、一者(真我)と合一する体験。「突然の飛躍によって自然に起こる」とプロティノスは記しており、これは恩寵・他力による体験です。

プロティノス自身は生涯に四度この体験に達したと伝えられています。

無関心の中心——カーライル

カーライルが『サーター・リサータス』で「無関心の中心(Centre of Indifference)」と呼んだ状態は、明け渡しの典型的な記述です。

あらゆる葛藤が溶けてなくなり、空っぽになった瞬間に「より高い力によって自己否定が起こった」とカーライルは記しています。

「自分を制し、自分に打ち勝ち、自我そのものを消し去ること——これが成し遂げられた」という記述は、明け渡しの後に訪れる恩寵の体験を鮮明に示しています。

行為の中の識別——陽明学・慎独

王陽明は「知行合一(ちこうごういつ)」として、知ることと行うことは本来一つであると説きました。

内面で識別し、良知(真我の声)に気づいたならば、それをそのまま行為として体現していく——日常のあらゆる場面が実践の場となります。会話の中で、仕事の中で、人との関わりの中で、自我から来る動きと真我から来る動きを識別し続けることが、慎独の実践です。

日常の自己観察——クリシュナムルティ

クリシュナムルティは「あたりまえな日常生活の最中で、関係の最中で、不断の自己観察」を説きました。

特別な瞑想の時間だけでなく、人と話すとき、仕事をするとき、感情が動くとき——あらゆる瞬間に、内側を観察し続けること。「日中を通して、心は鋭く、素早さをもって、注視し、傾聴し、自分の思考や感情の動きに注意する」——これが日常の実践です。

行動の中の観想——イグナチオ

イグナチオ・デ・ロヨラが霊操を通じて目指したのは「行動の中の観想(観想的行動人)」という生き方です。

「すべての中に神を見出す」——日常生活のあらゆる場面・働くこと・人と関わること・自然と接することの中に神の働きを見出し、神とともに生きる実践的な姿勢です。これはワンネス体験が日常化した状態ともいえます。

まとめ——ハイヤーセルフ(真我)への気づきを深めるために

真我体験——ハイヤーセルフに繋がる、一瞥体験・見性体験・見神体験とも呼ばれる、宇宙の根源意識・真我への気づき——は、古今東西の伝統が一致して指し示す5つのポイントによって起きやすくなります。

1. 求める——真理・真我・神を心底求める心(発心・菩提心・求道心)が、すべての出発点です。霊性があるからこそ真我を求める。この「聖なる求道心」こそが、真我の道を歩む原点です。

2. 浄める——認知を整え、善行を重ね、懺悔・反省を深めることで、真我を覆っている煩悩・執着・自我の鎧を取り除いていきます。心が浄まるほど、真我への気づきは起きやすくなります。

3. あるがまま——求める力みを手放し、ただそこに在ること。観察・明け渡し・慈悲・禅定——表現は異なっても、すべて同じ方向を指しています。「あるがまま」ができるようになると、恩寵が自然に流れ込んでくるようになります。

4. 感受力——心に生じる思考・感情・感覚を鋭敏に感じ取る力です。懺悔を深め、観察を細やかにし、識別を鋭くするための土台となります。感受力なくして、他のポイントは上辺だけになってしまいます。

5. 識別力——善・真我から来る動きと、自我・エゴから来る動きを見分ける力(智慧)です。この感性が磨かれるほど、真我体験は近くなります。

この5つは別々のステップではありません。どこから始めても、すべてがつながり合い、螺旋状に深まっていきます。そしてこれら5つの根底には「霊性」があります。愛・善・究極を本能的に求める神の趨勢——それが霊性であり、真我体験とは霊性の開眼・体現にほかなりません。

ハイヤーセルフ(真我)は「得る」ものではなく、すでにそこにあるものに「気づく」ものです。5つの実践は、真我を手に入れる(ハイヤーセルフに繋がる)ための技術ではなく、真我への気づきを妨げているものを静かに取り除いていく道です。

どの実践が合っているかは人それぞれです。自分に合った入り口から始め、日々の生活の中で続けていく——その積み重ねの先に、真我との出会いがあります。

ということでして大変な長文記事となりましたが、本当の意味でハイヤーセルフに繋がりたい、真我に気づけるようになりたいという方のための瞑想会も行っています。

真我・ハイヤーセルフがわかるようになる「ゆるっと瞑想」はこちら

【ゆるっと瞑想会における具体的な実習】
本当に自分が変わる・瞑想「4つの実践」とは?

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