名色分離智とは?|「私が苦しい」がほどけると瞑想が変わる

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名色分離智とは?|ヴィパッサナ瞑想における観の智慧の入口

名色分離智(みょうしきぶんりち)」という言葉。

テーラワーダ仏教やヴィパッサナ瞑想に触れている方なら、見聞したことがあるかもしれません。

名色分離智とは、ひと言でいえば、「心のはたらき(名)」と「身体・物質的現象(色)」を、混同せずに見分けられる智慧のことです。

ただ、これを言葉で聞いただけでは、なかなかピンとこないと思います。

ある種の身体意識が生じると、名(心)と色(存在)は別々のものであるという自覚が生じ、これを名色分離智といっていると思われます。

なお名色分離智は、原始仏典にはありません。5世紀に著された『清浄道論』や11世紀にまとめられた『アビダンマッタサンガッハ』にも無い概念です。推察するに20世紀になってからマハーシ系で言い出された新規の概念ではないかと思います。

しかし瞑想の実践においては役に立つ概念ですし、伝統に根ざしています。

この記事では、名色分離智とは何か、なぜそれが重要なのか、歴史的な背景とともに、できるだけわかりやすく解説していきます。

名色分離智をわかりやすく説明すると

人は、「私」という感覚にとらわれている限り、現象そのものをありのままに観察することはできません。

たとえば、嫌なことがあったとき。

胸が締め付けられるような感覚。湧き上がる怒りや悲しみ。「なんであんなことを言われなきゃいけないんだ」という思考。

「私が苦しい」という状態では、苦しさという現象を客観的に見ることが難しい。苦しさと「私」がべったりくっついているからですね。つまり、現象に巻き込まれている状態なんです。

名色分離智が生じるとどう見えるのか

ところが、名色分離智が出てくると、「苦しいという現象が起きている」という見方が、実感として可能になってまいります

一歩踏み込んで言い換えると、「私が苦しい」というのが薄らぎます。また体感的にいいますと、明晰性と余裕(距離感)をともなって見えるといえます。無我に向かっていく文脈に開ける一歩ともいえます。

名色分離智を具体的にいいますと、

  • これは身体の感覚だな(胸の締め付け感)・・・色(身体・物質的現象)
  • これは感情の反応だな(怒り・悲しみ)・・・名(心のはたらき)
  • これは思考だな(「なんで・・・」という言葉)・・・名(心のはたらき)

というふうに、色(身体・物質的現象)名(心のはたらき)が、実感をともなって区別されて見えてくる段階といえます。

「私が苦しい」というごちゃっとした一塊の感じだったのが、「苦しいという身体が絡んだ現象が起きていて、心がそれに反応している」という見方が生じてくる。これが名色分離智の特徴とも言えると思います。

もっとも経験的な観点からいえば、名色分離智は霊性(慚愧:ヒリ・オパタ)が生じる最初の一歩ともいえます。ある種の身体感覚をともなっています。

で、これが、本格的な「観の道」が始まる出発点になります。だからこそ、名色分離智は「観の入口として非常に大事」とされているんですね。

「名」と「色」とは何か|仏教の基本概念

名色分離智を理解するために、まず「名(みょう)」と「色(しき)」という言葉を理解しておく必要がありますね。

「名」とは何か

「名」とは、心のはたらきのことをいいます。パーリ語では「ナーマ(nāma)」といっています。

共一切心心所(7種類)

仏教では古くから「名色(ナーマ・ルーパ)」というセットで、心と身体の現象を整理してきました。が、テーラワーダ仏教のアビダンマ(論蔵)では、さらに名は詳細に分析されています。

中でも特に重要なのが、すべての心に必ず伴う「共一切心心所」と呼ばれる7つの心の働きです。それは、

  • (phassa)・・・触れる:感覚器官と対象が接触
  • (vedanā)・・・感じる:感受作用(苦・楽・不苦不楽)
  • (saññā)・・・分別する:認識・イメージ
  • (cetanā)・・・意図すること:意志・モチベーション
  • 一境性 (ekaggatā)・・・集中すること:集中力・一体性
  • 命根 (jīvitindriya)・・・生きている:生命力
  • 作意 (manasikāra)・・・動かすこと:作動・注意・向けられる心

といった7つです。これらはどんな心の状態にも必ず伴うものとされています。「名」の中核をなしています。

「名」とは、触れること・感じること・分別すること・意図すること・集中すること・生きているということ・動かすということ。「名」とは、こうした心のはたらき全体を指しています。

遍行心所(5種類)

なお「名(ナーマ)」の分類には、「遍行心所(へんぎょうしんじょ)」という「5つの心の働き」に整理した説明もあります。

テーラワーダ仏教では、論書(アビダルマ)による7種の分類が一般的です。が、パーリ仏典 相応部「因縁相応」第12・第2経「分別経」では、ブッダは以下のように説いています。

「感情(受:vedanā)、認識(想:saññā)、意思(cetanā)、接触(感触:phassa)、作意(注意:manasikāra)、これらを名(nāma)と呼ぶ」

ここから唯識大乗でも分類される「遍行心所」の区分が登場します。それが、

  • 触(そく)・・・触れること:感覚器官と対象が接触
  • 受(じゅ)・・・感じること:快・不快・中立の感受
  • 想(そう)・・・分別すること:知覚すること、認識すること
  • 思(し)・・・意図すること:意志のはたらき
  • 作意(さい)・・・心を対象へ向けること:注意

これら5つの分類ですね。
遍行心所では、名(ナーマ)は5種類の分類になっています。これら5つは、どんな心にも必ず伴うものとされています。「名」を構成する中核としています。

遍行心所(へんぎょうしんじょ)も、心(名)を分類する一つの説明ということですね。共一切心心所と分類しても、遍行心所と分類しても、本質はそう変わりがありません。分類体験にいたずらにこだわらなくてOKですね。

「色」とは何か

一方、「色」とは、身体や物質的な現象のことをいいます。パーリ語では「ルーパ(rūpa)」といっていますね。

「色」には、身体そのもの、感覚器官(目・耳・鼻・舌・身体)、そしてそれらで感じられる物質的な現象が含まれます。

呼吸の動き、胸の締め付け感、頭の重さ、足の冷たさ。こうした身体側の現象が「色」ですね。

しかし、この説明は抽象的に感じましょか。実践的な感覚からいいますと「色とは存在・有る物一切」といえると思います。

ちなみにブッダは「四大要素(地水火風)と、四大要素に依存するもの、これらを色(rūpaṃ)と呼ぶ」と、パーリ相応部「因縁相応」第12・第2経「分別経」で説いています。

「名色」のセットで何を意味するか

以上のことからもおわかりかと思いますが、「名色(みょうしき)」とは、心と身体の現象全体をセットで表す言葉ということですね。

仏教的な見方では、私たちが「自分」と思っているものは、実はこの「名(心のはたらき)」と「色(身体・物質的現象)」が絡み合って起きている現象としています。これが「私」。

で、名色分離智とは、この「名」と「色」を、実感をともなって区別して見られるようになる最初の智慧をいいます。

具体的にいいますと、存在は存在しているが(色:ルーパ)、思考、情緒、心は別にうごいているといった実感です。精神作用が「小さく感じられる」「距離を感じる」といった見え方(認識)、このことを名色分離智といっています。

『清浄道論』における名色分離智の位置づけ

名色分離智を語る上で欠かせないのが、『清浄道論(ヴィスッディマッガ)』ですね。論書の一つです。

清浄道論の簡単な説明

『清浄道論』とはどんな書物か

『清浄道論』は、5世紀ごろにスリランカで活躍したブッダゴーサ(仏音)という学僧によって編纂されたテーラワーダ仏教の瞑想テキストです。

戒・定・慧(シーラ・サマーディ・パンニャー)という三学の体系に沿って、修行の道筋を体系的かつ詳細にまとめています。その網羅性と精緻さから、テーラワーダ仏教において最も権威となっている論書のひとつです。

特にヴィパッサナ瞑想(観察瞑想)の実践論については非常に詳しく記されています。現代のテーラワーダ仏教の瞑想指導は、清浄道論に基づいているのがほとんどなんですね。

清浄道論における「観の智慧」の体系

『清浄道論』では、ヴィパッサナ(観)の智慧は、段階的に発展していくとして整理されています。観の智慧は、おおよそ以下のようなステップを経るとされています。

  1. 名色分離智
    【見清浄】心と身体の現象を見分ける(余裕・距離が生じる)
  2. 縁摂受智
    【渡疑清浄】それらが条件によって生起していること(縁起)がわかる
  3. 思惟智・生滅智
    【道非道智見清浄】無常・苦・無我を観察し始める
  4. 壊滅智・怖畏智・過患智・厭離智・脱欲智・省察智・行捨智
    【行道智見清浄】無常・苦・無我に対するさまざまな智慧や心によって解脱へ向かう
  5. 遍作智・随順智・種姓智・道心・果心
    【智見清浄】解放に向かう智慧が生じて解脱に至る

この流れの中で「名色分離智」は、観の智慧の最初の段階にあたります。

つまり、ヴィパッサナ瞑想において、無常・苦・無我を観察するための、最初の土台となる智慧です。

実践上に照らせば、観の智慧とは、名色分離智の深まりという言い方ができます。

なぜ名色分離智が「入口」として重要なのか

名色分離智という概念を扱う際に、一応、歴史的なことも踏まえておくのがよいかと思い、上記では歴史的な背景もご説明しましたが、「名色分離智」の背景にあるのは「私」という認識、実感ですね。

実践的な観点からいいますと、人は「私」という感覚に強くとらわれていると、現象そのものを「ありのまま」に観察することは難しいんですね。大変難しいといえます。

「私が苦しい」という状態では、「苦しさ」という現象を客観的に見ることはできなかったりします。なぜなら、苦しさと「私」がべったりくっついているからなんですね。

これと関連して、言葉の奥、向こうにある「非言語的なニュアンス」をつかむことも難しい印象です。

結局、対象物(色:存在)と名(精神作用)がベッタリになっているからなんだと思います。色と名は別々という無意識的な実感が生じませんと、「私」という意識の軽減は起きにくいですし、「とらわれ」そのもの軽減しにくい感触があります。

この感覚が生じませんと、やせ我慢、無理に「私を切り裂く、切り離す、捨てる」「とらわれない!」といった、昔に多かった厳しくもハードな修行になってしまいがちな感じです。

ところが、名色分離智が出てくると、「私が苦しい」という感覚が薄らぎ、たとえば「苦しさという現象が起きている」「なーるほど」といった余裕が生まれてきます。「とらわれ」に対してもそうです。

私そのものは無くなりませんが、また執着そのものもは無くなりませんが、「薄らぐ」「距離が出る」「余裕が出てくる」というのが、見方が、初めて実感として生じてきます。

ですので、名色分離智が「観の道のスタート」となるわけですね。

名色分離智の歴史的背景

ブッダの時代から続く観察の実践

名色分離智という概念は、紀元前5世紀ごろのゴータマ・ブッダの教えにまでさかのぼります。

ブッダは、苦しみの根本原因を「無明(無知)」と「渇愛(執着)」であると喝破されています。

そして、苦しみから解放されるためには、現象をありのままに見る智慧(パンニャー)を育てることが必要だと説いています。

ブッダご自身は「名色分離智」という言葉や概念は言われていません。

ありのままに観察すること

しかし観察としての実践を説いていて、それがヴィパッサナ(vipassanā)ですね。

「ヴィ」は接頭辞 vi-であり、「はっきり」「明確に」「特別な仕方」「見分ける」という意味。「パッサナー」passanāは、「見ること」を意味し、合わせて「明確に洞察すること」「ありのままに観察すること」を指します。

ブッダが説いた教えの中に、実のところ、名と色を見分けることはあります。このことを後世のブッダゴーサが、体系的にまとめて清浄道論にしたといえます。

アビダンマとブッダゴーサへの展開

ブッダ入滅後、ブッダの教えはアビダンマ(論蔵)という詳細な仏教哲学・心理学としての体系へと発展します。アビダンマでは、心のはたらき(心所)を詳細に分析・分類し、名と色の区別を精緻に分析しています。

そして5世紀、ブッダゴーサは、当時すでにあった『解脱道論』を下地にして『清浄道論』を著しています。清浄道論では、パーリ仏典にある「伝車経」の七清浄を元にして、「見清浄」から始まる観の修行を体系化して整理しています。

清浄道論はスリランカからミャンマー、タイ、カンボジアなどに広まります。テーラワーダ仏教圏における瞑想実践の重要テキストになっています。

清浄道論には名色分離智という言葉は登場しない

ところで、ここで一つ注意が必要です。『清浄道論』では「七清浄」という分類をしていていますが、名色分離智という言葉は出てきません。

清浄道論は5世紀頃の誕生していますが、ここでは修行の進展を「七清浄」としています。で、その中の「見清浄」において、「名色をあるがままに見る」ことが説かれています。これは、後に名色分離智と呼ばれる内容にかなり近いものです。

しかし、清浄道論には、現代のヴィパッサナー瞑想でよく使われる十六観智の体系はないんですね。また、「十六観智の第1智として名色分離智が生じる」という説明も、清浄道論本文にはありません。

アビダンマッタサンガハの登場

その後、11世紀頃に、アヌルッダが著した『アビダンマッタサンガハ』が登場します。ところが『アビダンマッタサンガハ』にも、実は十六観智も名色分離智は出てきません。

『アビダンマッタサンガハ』には十観智はあります。けれども、名色分離智を第1智とする十六観智の体系はありません。

現代ヴィパッサナ瞑想への継承

20世紀に入ると、ミャンマーを中心としたテーラワーダ仏教圏で、ヴィパッサナ瞑想の復興運動が起きます。

マハーシ・サヤドー(ラベリング瞑想)、レディ・サヤドー(ゴエンカ氏の瞑想)といったミャンマーの名僧たちが、在家の人々にも実践できる形式のヴィパッサナ瞑想を広めます。

この流れは、現代の世界的な瞑想ブームにも連なっています。マインドフルネスの源流の一つにもなっています。

20世紀になってから登場した名色分離智という言葉?

ところで、現在よく知られている「十六観智と、その第1智としての名色分離智」という説明は、20世紀になってからのマハーシ系ヴィパッサナー瞑想において初めて登場した可能性があります。

おそらくマハーシ系では、清浄道論やアビダンマ教学の伝統を踏まえつつも、現代向けの実践マニュアルとして再構築・体系化されたのではないかと推察しています。

歴史的にみても、19世紀後半から、ビルマ(現在のミャンマー)はイギリスの植民地となっています。ヴィパッサナ瞑想の復興運動には、ビルマ(現在のミャンマー)の独立を求める政治的な背景もあったのではないかと憶測しています。

そこで在家向けにもわかりやすく、しかも印象深く受け止められる「新しい説明体系」をも考案されたのではないかと。「十六観智」と「名色分離智」は、修行実戦上、一つの一里塚を示す概念としては魅力があります。修行実践においても意気揚々たるモチベーションを高めます。

で、名色分離智に開けることで、真理真実に近づく!といった心は、ビルマ(ミャンマー)人にとっても希望となったのではないかと思いますが、これは私の勘ぐりかもしれません。

ですが、20世紀のマハーシ系において、清浄道論では明確に言語化されていなかった「名色をあるがままに見る」を「名色分離智」として言語化。並行して「十六観智」を考案されたのではないかと推察しています。

言い換えると、名色分離智は、清浄道論の見清浄を土台にしながら、マハーシ系の瞑想実践の中で、より実践段階として明確化された智慧と体系であると思います。

実際、マハーシ系に端を発する瞑想が、現代のヴィパッサナ瞑想にも踏襲され、広く世界中で実践もされています。

現代のヴィパッサナ瞑想の指導においても、名色分離智は観の実践の重要ポイントとされています。ミャンマーでは、名色分離智に達したなら、出家を勧められるほど重要な節目として位置づけられています。

名色分離智をめぐる背景には歴史的な推移もあり、ここを理解することで、瞑想実践への理解にも深みが出てくるのではないかと思います。

「分離智」とはどういう意味か

ところで、名色「分離」智というと、「心と身体を二元論的に切り離すこと」のように聞こえるかもしれません。

確かに、そのような受け止め方、理解の仕方もあり得ます。

ですが、現代、一般的に知られている「名色分離智」は、名(精神作用)と色(存在)が別々に感じられる智慧(感覚)としています。

「分けて考える」ではなく「分かれて見えてくる」

とはいっても、名色分離智における「分離」とは、観察の智慧によって、今までベタッと一体化していたものが、ちゃんと区別して見えてくる、というニュアンスが実際的な感覚になります。

で、これは頭で「心と身体は別です」と理解することとは、まったく別なんですね。

たとえば瞑想中に、

  • 呼吸という動きが起きている
  • お腹の膨らみ・縮みという感覚がある
  • それを知っている心がある
  • それに反応している心がある

というように、現象が実感とともに余裕・距離を感じて見えてくる

これが名色分離智なんですね。理屈で「分けて考える」のではなく、実際の観察の中で「分かれて見えてくる」のが特徴的です。

名色分離智は二元論ではない

なお、名色分離智は、「心と身体が別々に存在する」という二元論的な判断を意味するものではありません。

あくまで、現象を観察する上での見え方です。心の側の動き身体の側の動きも、ゴチャ・ベタっとした巻き込まれた見え方から、余裕・距離をもって見ることができるということですね。

で、このことを身体感覚に基づいて説明しますと、対象物(色:ルーパ)そのもの・クリヤーに見えつつも、思考・感情といった心(名:ナーマ)は「脇に追いやられる感じ」「ただ浮いては消えていく感じ」「泡のよう」「小さく感じられる」といった感覚になります。

ですので、「現象がよりクリアに見える智慧」とも言われるんだと思います。「心と身体は別々の実体だ」という認識ではありません。

名色分離智が出てくるとどうなるか

では実際に、名色分離智が出てくると、どのような変化が出てくるのでしょうか。

思考や感情との距離ができる

名色分離智が出てくると、思考や感情に「ベッタリ巻き込まれる」ことが少なくなってきます

それまでは、不安な思考が湧いたら、すぐにその不安に飲み込まれていた。ところが名色分離智が生じて深まると、「あ、不安という感情の動きがある」「思考という現象が起きている」という観察の余裕ができてきます。

ちなみにこれは、感情がなくなるということではないんですね。感情は起きている。ただ、それが「私のすべて」ではなく、「起きている現象のひとつ」として見えてくるということなんですね。

「私がやっている」という感覚が少しゆるむ

普段私たちは、考えていることや、感じていることも、すべて「私がやっている」という感覚があります。

しかし名色分離智が出てくると、この「私がやっている」という感覚がゆるんできます。

思考は起きている。感情は起きている。でも、それが「私がやっている」のではなく、「現象として起きている」と見えてくる。

このゆるんだ感覚が、仏教でいう「無我の観察」への入口につながっていきます。

とらわれが軽くなり、楽になる

以上の変化の結果として、名色分離智に開かれると「前より楽になった」と感じます。

これは、問題が解決したからではないんですね。問題があっても、現象に「ベタッと巻き込まれる」度合いが減る。それ故に楽になるということですね。

苦しさという現象があっても、それと少し距離ができる。怒りという感情が起きていても、短絡的に行動に出ることは減る。それまでよりも余裕が出てきて「怒りが起きているな」と観察できるようになります。

他責思考・保身志向も減る

また「あの人のせいだ」「社会が悪い」「前世が原因だ」「霊障が原因だ」「誰某(だれそれ)が悪い・何某(なにがし)悪い」といった「他責思考」が減っていくようになります。

いたずらに自分を守る「保身志向」も減っていくようになります。

これらは「余裕」が出てくるため、いたずらに自己を守ることが減っていくことと関係しているように感じています。

けれどもこれらは実際に体験、体感しないとわからないことだと思います。

名色分離智が生じることによって、日常生活においても良い変化が生じるようになって、その変化少しずつ良い影響となって感じられてくるようになります。

名色分離智と解脱の関係

なお名色分離智は観の智慧の入口であって、それ自体が解脱(げだつ)ではないんですね。

テーラワーダ仏教における解脱とは、煩悩の滅尽であり、輪廻からの解放をいいます。その最終段階が「阿羅漢果(あらかんか)」ですね。

名色分離智の段階では、まだ煩悩は滅していません。しかし、

  • 現象を「私」という塊として握りしめる力が少しゆるみ始める
  • 観察の智慧(あるがまま・如実知見)が育ち始める
  • 無常・苦・無我の本格的な観察への道が開かれる

という意味で、解脱への道筋において、欠かすことのできない重要な節目になります。

名色分離智が出てくることで、観の道が本当の意味でスタートします。その先に縁摂受智、生滅智、行捨智といった智慧の深まりが起き、やがて解脱へと向かっていく。このステップが『清浄道論』を現代的に解釈している道筋(十六観智)です。

名色分離智はどうすれば出てくるのか

では、名色分離智はどうすれば出てくるのでしょうか。

ヴィパッサナ瞑想を実践する

これはひと言でいえば、ヴィパッサナ瞑想の実践を続けることに尽きます。

頭で「名色を区別しよう」と意図しても、名色分離智は出てきません。理解だけで「名色分離智を獲得した」ということにもならないんですね。

実際のリアルな体感が必要です。

ヴィパッサナ瞑想では、呼吸、身体の感覚、音、思考、感情など、今この瞬間に起きている現象を、ありのままに観察し続けます。

たとえばマハーシ・サヤドー式のヴィパッサナ瞑想では、ラベリングしながら「膨らみ・縮み」と腹部の動きを中心に観察し、思考が出れば「思考・思考」、感情が出れば「感情・感情」と静かに観察していきます。

ラベリングしないやり方もあります。

自己観察・プレゼンスを実践する

テーラワーダ仏教以外の自己観察(ありのままに自己観察する瞑想、あるがままに内観するやり方、あるがままに心を感じるやり方など)でも開かれていきます。

現代覚者らが言う「プレゼンス(いまここ)」もそうです。

この実践を積み重ねる中で、呼吸という物質的な動き(色)と、それを知る心の動き(名)が、少しずつ区別されて見えてくるようになってきます。

これが名色分離智の出てくる過程です。

名色分離智はプレゼンスともいいます。本質的には同じことをいっています。

瞑想で人生が変わるとは?|プレゼンス・ハート・霊性が開く実践

名色分離智のまとめ

ここまでお話ししてきたことを、最後に整理しておきます。

名色分離智とは、心のはたらき(名)と身体・物質的現象(色)を、「私」という塊としてではなく、別々の現象として実感をともなって見分けられるようになる観の智慧のことです。

実際的には、名色(事象)から余裕と距離感をもって見えてくる認識や意識をいいます。これを名色分離智といったりプレゼンスといっています。意識に広がりの体験があります。

テーラワーダ仏教の『清浄道論』『アビダンマッタサンガッハ』を踏まえた近代の瞑想体系において、名色分離智は観の智慧の最初の段階として位置づけられています。言葉や定義はさておいて、観察系の瞑想実践を通じてわかってくるものですね。

名色分離智が出てくると、

  • 思考や感情にベッタリ巻き込まれにくくなる
  • 「私がやっている」という感覚が少しゆるむ
  • とらわれが少し軽くなり、楽になる
  • 無常・苦・無我の本格的な観察への入口が開かれる

という変化が起きてきます。

それは解脱の完成ではありませんが、観の道が本格的に始まる、非常に重要な節目です。

日常の「私」という感覚から少し自由になり、現象をよりクリアに、ありのままに見ていく道へ。名色分離智は、その最初の大切な一歩といえると思います。

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