スッタニパータとの出会い

「祈り」はいいですね。実はずっと行っています。かれこれ21才のときからです。もう30年以上になります。今は祝詞を唱えた後に行っています。
実は、高校三年生のときに、岩波の「ブッダのことば(スッタニパータ)」を手にしましてね。
この書は、平易な言葉で書いてあるにも関わらず、ほとんど理解できなかったものです。また書いてあることは、到底、自分には実行できないことばかり。
当時は「仏教はよくわからないなあ」「難しいなあ」と思ったものでした。
10代のころは慈しみがまったくわからなかった
若いころは、言葉として意味がわかることと、体感としてわかることはまったく別だったものです。
確かに、文章を読めば「なるほど、そういうことを言っているのか」と頭では理解できます。
けれども、それが一体どんな心の状態なのか、自分の内側でどう感じられているのかとなると、まったくわからない。
しかも仏典に出てくるような、澄んでいて、しかも広大な慈悲の心のはたらきは、当時(10代のころ)の自分には、まさに雲をつかむようなものでした。
あり得ないといった所感が強く、とにかく信じられないおとぎ話のように感じていたものです。
「慈しみ」の章に仰天したこと

けれども、p37にある「慈しみ」という章には惹きつけられて、釘付けになったものです。そこには、
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145 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
149 あたかも、母がおのが独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対して、無量の慈しみの心を起こすべし
150 また全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく、怨みなく、敵意なく。
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とあります。もう仰天しましてね。書いてあることはわかります。けれども体感的にまったく理解できません。
「人間は、このような慈しみの心を持つことができるんだろうか?」「こんな崇高な思いに、人は本当に至ることができるんだろうか?」と。
当時は、到底、持ち得ようのない心で、想像すらできません。「慈しみ」の心とはどういう状態なのか、サッパリわかりません。
10代の頃は、雲をつかむような思いで「慈しみ」の心に思いを馳せて、慈しみの心の真似事も始めたものでした。その信じがたい「慈しみ」という心に、憧憬の念を抱くようになったものです。
言葉の美しさではなく、心の広さに驚いた
この一節にどうして心打たれたのかといえば、単に表現が美しいとか、仏教の言葉として立派だとか、そういうことではなかったんですね。
人間の心が、ここまで進化するのだろうか?、ということに驚いたんですね。
しかも、それは社会規範や仮面を付けたポーズとしての善行ではなく、意識の深いところから生じているホンモノのやさしさ、無量の心。
怨みなく、敵意なく、障害なく。
ここまで言い切る心が本当にあるのか?と、若いころは信じられなかったものです。
慈しみを体感するときが来た
ところが「自己を見つめる」修行を続けていると、ある時、「慈しみ」の味わいがわかるときがやってきまして。
それが一瞥体験(見性体験)でした。この無我的な体験に付随して、神の愛(慈悲)が心にともすようになったものでした。
このときは、飛び上がらんばかりにうれしかったものです。※観察行、気づきの瞑想は慈悲を目覚めさせることがあります。
もっとも「わかる」といっても、お経にあるように四六時中、慈しみにあり続けるというわけではありません。
片鱗が備わるといいますか、味わいがわかるようになったというものです。
しかし、その片鱗、味わいがわかっても人生を一転させるパワーであり、自分の内奥に慈悲の灯火がともり続けるようになったものでした。
このときの体験がきっかけで、それからは「祈り」を続けています。
片鱗がわかるだけでも大きな変化
ちなみに、慈悲の片鱗、味わいがわかるようになるといっても、慈悲そのものがわかるため、その圧倒的なエネルギーとパワーは、その人を凌駕します。
そうして、その後、慈悲、神の愛に生きたい、生きていこうという情熱がわき上がり、自ずと利他行、自分なりの慈しみの実践へと駆り立てるようになります。
それまではスッタニパータを読み、文章の意味としてしか理解できていなかった慈悲が、体感としてわかるようになることは、内面における大きな変化をもたらします。
「慈しみ」が概念ではなく、体感としてわかる。お経の言葉も理解できるようになります。
観察行が慈しみを目覚めさせる
こうした変容は、形式通りや教条的な実践だけでは、起きにくいかもしれません。
やはり「自己を見つめる」こと。
本心、本音を見つめる。そうして、その動機を深く観察する。
自分の内側の反応、粗さ、こわばり、身構え、攻撃性、おそれ、さびしさ、目を背けたくなるような自分の本心や本音、動機を見る。じーっと意識を凝らして、心の奥底を見つめる。
このような自己観察が、あるとき、意識の底を突き破って光を現出させて、そのときに宇宙意識とともに神の愛(慈悲)の扉を開けることがあると思います。
観察行や気づきの瞑想は、直接「慈悲になろう」とする実践ではありません。
けれども、心を深く見つめていく中で、意識の底に触れ、何かが開いて自己の殻を打ち破り、光とともに意識の拡大が起きて、世界が一変するときがやってくると思います。
このことを古来、見性体験とか、一瞥体験、覚醒体験といっていたのだと思います。
慈しみは育つ性質がある
ちなみに、「ブッダのことば(スッタニパータ)」は、数あるお経の中でも難解なお経になります。
でも一番人気があるようですね。ロングセラーになっていて、今でもアマゾンで売れ筋仏教書の上位にランクインしています。本当は、難しいお経なんですけどね。
またスッタニパータに伝承されている「慈しみ」に関する文言は、究極の姿なんですね。
実際は、人を傷つけたり、攻撃してしまったり、批難をしてしまうことも起き得ます。人間ですのでね。
けれども、そうした中にも慈しみの心が灯(とも)り続けて、やがてだんだんと、慈しみの心は成長していくようになります。
最初は真似事でもよい?
当時の私は、慈しみの心の真似事もしていました。
本当にその心がわかっているわけではない。けれども、こういう心は尊いのではないか、こういう方向に向かいたい、という憧れがある。
けれども、こうした真似事がかならずしも役に立っているかどうか、、、それは今でもわかりません。
大事なことは心の観察
しかし大事なことは自己観察ですね。自分の心を見る。
私の場合は深く深く見つめることをしていましたが、根を詰めて行うとデメリットも出てきます。
意識の底(潜在意識)には、抑圧された心や傷痕がある場合もありますので、注意も必要だと思います。
安全に進めていくためには、天啓気療を受けながら行うことをおすすめしています。
慈しみにはやわらかさと知性がある
ところで慈しみというと、ただやさしいとか、ただ温かいというふうに思われることがあります。
けれども実際には、それだけではないんですね。
慈しみには、相手を傷つけにくい細やかさがありますし、心の粗さに流されにくい知性もあります。慈しみはスィートなやわらかさと同時に、繊細な感受力でもあります
慈しみは、単なる感情論ではなく、やさしさが昇華し飛躍した心でありながら、実のところ誰もが潜在的に持っている叡智のような性質でもあると思います。
慈しみの心の成長には祈りと実践が欠かせない
慈しみの心を伸ばし、育むためには、祈り(慈しみの瞑想)と実践が欠かせません。
実践も必要ですね。実際に行動に移すことによって、慈しみの心の拡大と高揚が生じてきます。
慈しみは、スィートなやわらかさと同時に、細やかな感性と知性があります。
「祈りの心」は、慈しみの心と同じです。
「生きとし生けるもの、みな幸せであれ、安泰であれ、安楽であれ」。
これはスッタニパータにある文言を、私流に言いやすくアレンジしたものです。30年以上唱えている祈りの言葉です。
思いついたときに「祈り」をするのはいいですね。おすすめです。
祈りが心にどのような変化をもたらすのかについては、こちらにもまとめています。
祈りの効果とは?心をきよめ愛にあふれ、自分も周囲も明るくなる実践
今回ふれたスッタニパータの「慈しみ(慈経)」そのものについては、こちらにもまとめています。
自己観察と祈りは慈しみの心を育てる実践
自己観察と祈りは、慈しみを育てる大切な実践です。
祈りというと、何か特別な宗教的行為のように思われることもありますが、そうでなく素朴な行為ですね。
思い出したときに、ふっと、生きとし生けるものの幸せを願う。誰か一人に対してでもよいですし、広く世界に向けてでもよいです。そういう祈りの時間を持つだけでも、心は変わってきます。
祈りをしたからといって立派な人間になるわけではありません。けれども、怒りや苛立ちや狭さの中に閉じこもっていた心が、やわらかくなっていきます。心を善くする行為でもありますね。
祈りとともに、自己観察を行う。
これがおすすめの「慈しみに開け、慈しみを育てる」実践であると思っています。
慈悲の心を育てる実践の仕方については、こちらでやり方やコツ、注意点も含めてまとめています。


