因果応報の本当の意味とは?|行為より認知を重視するのが仏教

因果応報とは?「認知のあり方」を重視するのが仏教

仏教では、原始仏教では、因果応報という教えをかなり細かく、詳しくまとめているんですね。

因果応報という言葉は、ほぼ全員が聞いたことがあると思います。意味も知っていますよね。

一般的には、「良いことをすると良いことが返ってくる」「悪いことをすると悪いことが返ってくる」という理解です。

普通はこれを「行い」「行為」にフォーカスして理解していると思うんです。で、確かに原始仏典にも、そのように読めるところはあるんですけれども、ただこれは半分正解なんですね。

本当に大切なところは、行為をも包括した認知のあり方のことを言ってるんですね。認知のあり方。

認知を重視するのが本当の因果応報

どういうことかといいますと、悪い考えとか悪い動機を持っていると、それが再び反復されますよ、繰り返されますよ、ということなんですね。

反対に、良い考え・良い認知であると、良い認知・良い結果となって返ってきますよ、という、実はある意味当たり前といえば当たり前のことを言っているわけなんですね。

大事なことは「認知」なんですね。

認知。

認知とは、日頃考えていること、日頃思っていること、日頃どう受け止めるか、どう解釈するかといった認識のことですね。

この認知のところが、実はものすごく大切なわけなんですね。

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因果応報とは悪い認知と良い認知が返ってくること

因果応報のコアは「認知」です。

物事をどう受け止めるか、どう考えるか、どう反応し、どう行動するかという、日常の言動全体のこと。

悪い認知は悪い現象をまねく

日頃からよろしくない考え---たとえば、否定的なこととか、あるいは、いつかもう間もなく人類は滅んでしまう、自分が滅んでしまうとか、そういう恐怖やおびえに囚われた考え、ネガティブな考え。

あるいは、ネガティブに受け止めてしまう、ネガティブに理解してしまう、何でもかんでも疑ってしまう、とかですね。

そのような否定的な認知だと、その認知がまた巡ってきますよ、ということ。その認知にふさわしい現象が起きますよ、ということなんですね。

これが因果応報の本当のところであって、因果応報を理解する上で一番大切なところなんですね。

良い認知は良い現象をまねく

反対に、良い認知、物事を肯定的に受け止めたり、善意に解釈したり、喜びや感謝の気持ちで受け入れる。日常生活の中でも、そういう考えが頭の中を駆け巡っている。

定的な認知だと、それにふさわしい良い認知がまた再び巡ってきて、起きる現象も「良きこと」が起きやすくなるわけなんですね。

実は、因果応報ってのはそういうことを言ってるわけなんですね。

わかりやすくいえば「ポジティブ・シンキング」「肯定的に物事を受け止める」という、自己啓発でもよく言われていることこそ、因果応報の本質だったりします。

因果応報は認知とその結果を示している

認知のあり方が大切なんですね、認知のあり方。

ですので、厳密に言うと、「行為」「行い」よりも、その心のあり様、認知のあり方、そちらの方が大切になってくるわけなんですね。

で、これを一歩進めると、認知を善くする・適切にすることが、よい因果応報となる。つまり幸福、幸運を招来する。

具体的にいえば、家族、友人、会社などのあらゆるコミュニティで満たされる、しあわせを感じる。お金や物質、社会的地位、環境などにも恵まれる。

人生全般が良くなる。

善行の考えは因果応報を関係している理由

これら人生全般の善し悪しの根本は「認知」です。認知。行為もさることながら、認知。動機。心。

日頃において、物事をどう受け止めるか、どう考えるか、どう反応し、どう行動するかという、言動のすべて。

で、ここから「善行」「積徳」といった考えでも出てくるわけですね。

逆にいえば、善行、積徳の本質は、「善い認知」ということなんですね。

仏教の因果応報は行為よりも動機を重視する

因果応報の法則においては、認知、つまり心、動機が重要なんですね。

実際、原始仏典では、意図しないで行った場合、例えば動物を殺めてしまったりとか、虫を踏んでしまったりするとか、そうしたことは罪にはならないとされてるんですね。

反対に、悪意を持って、憎しみを持って、「この野郎」とか「お前なんか死んじまえ」とか、そういう気持ちで動物や昆虫、虫を殺したりすると、それは罪になりますよ、というのが仏教的な捉え方なんですね。

なので、行為よりも、その認知、どう考えてるのか、どう受け止めているのか、どういう動機なのかといった、その辺のところが大切になってくるわけなんですね。

日頃の認知のあり方がまずいと、まずい認知がまた戻ってきますよ、良い認知であると良い認知が戻ってきますよ、という、ある意味当たり前といえば当たり前のことを「因果応報」として言われてるわけなんですね。

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因果応報が怖い話になった理由

けれども因果応報は、行為にフォーカスされて、行為の部分が強調されてきた歴史があるものですから、どこか怖い話として世に広まってるところがあるかなと思います。

かくいう私も、昔は「なんか怖いなあ」なんて思ったんですけども、よくよく調べていくと、また実際に自分で瞑想なんかもやっていきますと、「いやいや、行為とかっていうのは部分的だなあ」って思うようになるわけですね。

それと、2500年前とか2000年前の人たちっていうのは、もう「超ならず者」が多かったくらいなんですね。道義心を欠いた「超ならず者」。

因果応報が怖く受け取られやすかった時代背景

2,000年前のエジプトにあったテラペウタイっていう出家団体を解説した本によるとですね、乱暴狼藉な人が多かったことが記されているんですね。

2,000年前は、たとえば夜、店でお酒を飲んで酔っぱらってしまうと、隣にいる人の耳をかじり取ったり、「かじる」んじゃなくて、「かじり切る」んですよ。あるいは「指を食いちぎったり」とかしたいたと。「指を噛む」んじゃないんですよ。「指をかみちぎる」んですよ。

それで、そういうことが割とあって、お酒の席で怪我をする、体の一部を損傷するっていうことがままあったことが、記録に残ってるくらいなんですね。

当時はね、それくらい、めちゃくちゃな、野獣じみた人がそこら辺にいたような時代だったわけなんですね。

もう道義心が著しく欠落し、霊性を喪失していた時代だったわけですね。

行為を強調した因果応報は当時の人に理解されやすかった

これは2,000年前のエジプトの話しでして、当時、ローマ帝国の管轄下にあった国の話なんですけれども、2,500年前のインドもそう大して変わらないと思うんですね。2,500年前のインドも。

そういう時代に「因果応報の教え」を説く場合、最も分かりやすく、最も当時の人々の心に刺さるのが、「そんな悪いことしたら、その報いが返ってくるぞ」っていう言い方なんですね。分かりやすい。分かりやすい。

当時の人にとってみれば、心に刺さるような説明の仕方として、「行為にフォーカス」した因果応報の話が多く語られたんだと思います。

で、それが原始仏典に記録として残ったんじゃないかなと思います。

昔の人向けの因果応報は現代人には怖すぎる

ところが後世になって、その記録を読むと、恐怖心が昂じた理解になりますね。

乱暴狼藉が酷く、道義心も霊性も著しく欠落した当時の人が「理解しやすい話し」として、行為に重点を置いた因果応報の話しは、現代人には刺激が強すぎます。

というか、現代人向けではないんですね。

どこまでも昔の人向けの話しの仕方です。

ですので2500年前の原始仏典を現代人が読むと、「因果応報って、何かやるとそれが返ってくるんだ」「そういう怖い教えなんだ」っていう理解とともに、恐怖心を伴って、その怖さが強調されるように理解されていまう。

いえ、現代に限らず、約1500年前に仏教が日本に伝わった時代から、恐怖の法則として因果応報がとらえられるようになってしまった。

そんな「怖い教え」として人口に膾炙されたんじゃないかなと思っています。

因果応報は本当にあるのか?|近代の生まれ変わりの話

実際、この「認知が大切」ということは、近代における生まれ変わりの話の中には端的に出てきます。

レナード・ジェイコブソンも著書の中で言われていますよね。

前世で特別に悪いことをしなくても現世で苦しみ悩むケース

レナード・ジェイコブソンの著書には、認知の重要性を示唆する前世からの因果応報談があります。

たとえば、過去世において、孤児院の子供を見捨ててしまった人がいましてね。その人の前世で、孤児院だか病院が火事になって、そこに残っていた子供や人々を見捨てて、自分だけが逃げてしまった。

その方は、その後、生涯にわたって後悔し続けた。

その方は、特別に何か悪いことをしてないのに、ただその後悔し続けたということで認知を悪くして、生まれ変わったら、原因不明の恐怖症などの不安心理に取り憑かれてるようになったと。

理由もわからない衝動的な不安を憶える認知になってしまったと。

レナード・ジェイコブソンの著書には、瞑想によって過去世の記憶が解放されていったっていうことが記されているわけなんですね。

認知の重要さがわかる近代の生まれ変わり話

因果応報とかカルマっていうのは、実際は、こうした「認知絡み」のケースが多いんじゃないかなと思います。

「何か悪いことをやったからこうなってるんだ」じゃなくて、おそらくほとんどのケースが「何かよからぬ認知だったためにこうなっている」っていうね。それが本当のところじゃないかなと思います。

また、それが該当するケースが多いかなと思いますよね。

近代の生まれ変わりの話しには、レナード・ジェイコブソンの書にあるような「認知絡み」のケースが多いんじゃないかと思います。

因果応報は「行為の報い」だけでは説明しにくい

「悪いことをして、その報いが」という話でいえば、例えば冤罪ですね。

罪も犯してないのに犯人として挙げられて、何年も勾留されて、最悪の場合、死刑になってしまう。

中には途中でそれが冤罪だっていうことがわかって、罪には問われないってことがあったとしても、非常に理不尽な話ですよね。

こういうケースこそ、昔ながらの「行為にウェイトを置いた」因果応報だと思います。

過去世で罪なき人を冤罪にしてしまったがために、その報いとして現世では自分が冤罪に遭う。

ただこのケースは、実際は少ないんじゃないかなと思います。

ほとんどが、前世における「悪い認知」「よろしくない認知」だったために、現世で苦しんだり、いろいろ思い悩むってことが起きてるんじゃないかなと私は推察しています。今はそのように感じています。

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因果応報の本当の意味|良い認知にしていくことが大切

ですので、因果応報とかカルマとかそういうのを、あまり言いたくないっていうのがあるんですね。

そもそもカルマとか因果応報って、どうしても恐怖心と結びつきやすいところがありますからね。

ですけど、カルマとか因果応報っていうものの本質は、今言ったように、「認知」、認知だと思いますね。

そういう意味で、良い認知にしていくことっていうのは大切ですよね。

そこで瞑想の実践です。また祈り、ハート瞑想ですね。また日頃からアファメーションも使いながら認知と善くしていく。整えていく。

そして天啓気療やセッションを受けていって、心を解放していく、エネルギー的にも清めていく。良くしていく。

そうすることによって、認知そのものが良くなっていきやすくなりますね。

ですので、手前味噌ながら、お勧めしている実践実習というのは、いわゆるカルマを解消する上でも、とても役に立つんじゃないかなと思います。

ということで、今日のお話になります。

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