使命を持って生まれ変わってきている?|スピリチュアルな解釈と業報の見方

「使命を持って生まれ変わってきている」は一つの解釈

スピリチュアルでは「使命を持って生まれ変わってきている」というのを時々聞きます。

確かにそうした目的をもって生まれ変わってきている人はいると思います。

たとえば人間界をよくするために、天界から使者として生まれ変わってくる場合ですね。

しかし、こうした人は、全員が全員、そうとは限らないと思います。

使命を持って生まれ変わってくる人も、少数ながらいる

ここで注意が必要なんですが、「使命を持って生まれ変わってきている」という話が、すべて空想だとか、すべて間違いだとか、そういうことを言いたいわけではないんですね。

実際に、ある種の役目を持って生まれてくる人もいると思います。人を導く役目、人間界をよくする役目、あるいは天界からの使者として生まれてくる人も、いると思います。

けれども、すべての人が該当するかといえば、それは違うかも?ということですね。

ですから、この話を一般化して、誰もが「使命を持って生まれ変わってきている」と考えるのは、少し違うのではないかと。

あと「使命を持って生まれ変わってきている」は一つの解釈とも思えます。

本当は業報の道理にしたがって生まれ変わっている

というのも原始仏教では、「人は業報にしたがって生まれ変わってきている」としているからです。

少々手厳しいといいますか、後ろ向きな気持ちになってしまいますが、原始仏教では「自分で選択しないで、業報の道理にしたがって生まれ変わってきている」としています。

それで、実際は因果応報という道理にしたがって転生してきているものの、それを「自分で選んだ」と理解すると、「使命を持って生まれ変わってきている」という解釈も成り立ちます。

業報にしたがうと、自分の意志とは関係なく、業報の道理にしたがって生まれ変わります。

ですが、業報にしたがっているのを知らないと・自覚していないと、その業報の道理にしたがって選択したことを、まるで自分が選択したかのようにみなすこともできます。

なお、こちらの記事では正しい因果応報について解説しています。正しい理解のためにもあわせてお読みください。

心地の良い「使命を持って生まれ変わってくる人」話し

このあたりは、スピリチュアルな言い方に親しんでいる人ほど、少しズレやすいかもしれません。

「自分はこの人生を選んできた」「この使命を果たすために生まれてきた」と言われると、たしかに聞こえはよいんですね。

人生に意味が与えられたようにも感じますし、自分の歩みを肯定しやすくなる面もあります。

けれども、そうした説明が心地よいからといって、必ずしも真実を言い当てているとは限りません。

少々厳しい言い方になりますが、むしろ、本当は業報の道理にしたがっているのに、その道理が見えていないため、自分の意志や使命のように解釈してしまうことがある、という見方のほうが、現実には近い場合もあります。

この話しは運命論と関係があります。

業報にしたがうことと、主体性が消えることは同じではない

ここで誤解しやすいのは、「業報にしたがっている」というと、自分には何の主体性もなく、全部が機械的に決まっている、というふうに受け取ってしまうことです。

しかし、輪廻転生は、どうも単純でもなさそうです。

現象としては、自分で考え、自分で選び、自分で決めているように見えます。実際、そのように心は動いています。

けれども、その選択の背後には、「異熟(いじゅく)」として現れている先天的傾向や、過去から流れてきている業報の流れがあることもあります。

ですので、主体性がまったく無いというより、主体的に選んでいるように見えるその動き自体が、すでに業報の道理の中にある、という見方ということですね。

このあたりが見えてこないと、「自分の使命として選んだ」という説明に流れやすくなるのだと思います。

自分で選んだように見えて、業報にしたがっていることがある

子どもの頃に弁護士になる!と思って、弁護士になる人がいます。

しかし、実のところ「弁護士になる」という異熟(先天的傾向)があって、その異熟にしたがって弁護士になったものの、それを自分で選択したかのように現象が起きてしまうことがあります。

ここの意味はわかりますかね?

自分で選択したかのようにみえて、本当は業報の道理にしたがっていたという話しです。

すべてが、こうとは言えませんが、こうしたケースがあったりします。

弁護士になる異熟の例で考える

この例で言いたいのは、「弁護士」が良いとか悪いとかではありません。

ある方向に強く惹かれること。小さいころから、その道に自然に向かっていくこと。周囲から見ると本人の努力や決意に見えること。

そうしたことの背後に、異熟(いじゅく)としての傾向があることもある、という話ですね。

ちなみに異熟(いじゅく)とは、過去の業の結果が、時間を経て熟したかたちで現れてくることをいいます。生まれつきの傾向、なぜか自然にその方向へ向かってしまう性質、本人は自分で選んでいるつもりでも、実は背後で強くはたらいている先天的傾向などは、異熟として見ることもできます。

ですから、本人は「自分の使命で選んだ」と思っていても、実際には、異熟に押し出されるようにその道に向かったという場合もあり得ます。

もちろん、すべてがそうだとは言えません。けれども、こういう見方ができるようになると、「使命」という言葉に安易に飛びつかなくなります。

選んでいるように見えることと、実際にどのような道理がはたらいているかは、別の話でもあるからですね。

名色分離智が進むと、安易なスピリチュアルから距離ができる

あと、人生が苦しくて、業報を認めることができない、知的に弱くて「使命を持って生まれ変わってきている」と信じ込んでしまうこともありますね。

しかしながら名色分離智に開けてきますと、「使命を持って生まれ変わってきている」という安易なスピリチュアルな発想になりにくくなります。

名色分離智をおすすめする理由の一つは、おかしなスピリチュアルに洗脳されにくくなるからですね。

観念と適切な距離ができると、地に足がついていない「使命を持って生まれ変わってきている」といった思想には違和感をおぼえるようになります。

逆にいえば、地に足がついていないスピリチュアルから距離を置くことができるようになるのが名色分離智ともいえます。

明快なリトマス試験紙だったりします。

と、ちょっとディープな話しですけどね。

名色分離智はスピリチュアルのリトマス試験紙になる

名色分離智が進んでくると、観念と現実とを混同しにくくなってきます。

頭の中で都合よく作った物語と、実際に起きている名色の現象とを、少しずつ分けて見られるようになるんですね。

そうすると、「自分には使命がある」「この人生は自分で選んできた」「すべては意味があって配置されている」といった言葉に、以前のようには飛びつかなくなります。

それらの言葉が、まったくの間違いとまでは言えなくても、少なくとも安易に信じ込むには粗い、と感じるようになります。

こうした違和感は、単なる懐疑ではありません。観念との距離ができ、地に足がついてくることで生まれる健全な感覚です。

その意味で、名色分離智は、スピリチュアルの真偽や深さを見分けるための、かなり有効なリトマス試験紙になると思います。

地に足がついていないスピリチュアルに惹かれにくくなるというのは、かなり大きなことですね。実践が深まるほど、観念に酔う方向ではなく、現実をありのままに見る方向へ進んでいくからです。

まとめ|自分の心を観察することの大切さ

以上のように考察をしましたが、最後に申し添えておきますが、「使命を持って生まれ変わってきている」人がいることは事実だと思います。

けれども、すべての人がそうとは限らないといと思います。

注意が必要なのは、不健康な欲求(スピリチュアルにアイディンティを見出したい欲求や願望)が根底にあって、それで「使命を持って生まれ変わってきている」という説を信じ込んでいる場合です。

こうしたケースでは、自分の心をよくよく観察して、不健康な有り様から脱却したほうが望ましくなると思います。

そのためにも、心を観察する瞑想を実践し、因果律の道理を踏まえて冷静に考察する視点もあったほうがよいかと思います。

なお瞑想で本当に大切な「気づき」や、観念との距離については、こちらでも触れています。

瞑想の極意「気づき」とは何か|感じる力・感受力の本質「識別」を解説

業報や先天的傾向と、意識の底流との関係については、こちらも参考になります。

瞑想実践で潜在意識は変わる|意識の底流から人が変容する理由

安易なスピリチュアルではなく、地に足のついた霊性については、こちらでも書いています。

霊性(スピリチュアリティ)とは何か|瞑想実践に欠かせない感受性・善性・正見

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