瞑想とは恩寵・他力によるもの

何故、瞑想会では深いリラックスが出てくるのか?

昨日のオンライン瞑想会で、「小林さんの瞑想会では弛緩(リラックス)の作用が顕著ですが、それはどうしてでしょうか?」といったご質問をいただきました。

昨日は、ちょっと言葉が出てこなくてうまくお答えができませんでしたが、先ほどピピンとひらめきがありましたので、シェアさせていただきたいと思います^^

ちょっと長文になりますが。

瞑想とは恩寵のたまもの

結局、瞑想は恩寵(おんちょう)によるものということですね^^

「恩寵」です。

恩寵とは、「向こうからやってくるもの」「訪れるもの」と表現できます。

誤解を怖れずにいいますと、「神(創造主)」ともいえます。

「サムシンググレート」ですね。

瞑想は「私」がもたらすものではない

ですので「私」が行う、できる、するというよりも、「向こう」からやってくるもの。

それが瞑想ですね^^

恩寵です。

恩寵がもたらすエッセンス

で、恩寵がもたらされるとき、

・リラックス(弛緩、ゆるみ)
・解放
・気づき
・広がり
・歓喜
・心地よさ
・慈しみ
・癒やし(ヒーリング)
・輝き、光
・高揚
・エネルギー

などを感じます。

私ではない恩寵がもたらす

これらは「私」が行う、する、できた結果ではなくて、「私以外の何か(恩寵)」がもたらしているエッセンスですね。

瞑想会や祈りの会に集まって、瞑想や祈りをしますと、「そこに恩寵がもたらされるようになる」。

実のところ、そういうメカニズムがあります。

阿弥陀信仰の「他力」

ちなみに、このことを「ナムアミダブツ」でお馴染みの阿弥陀信仰では
「他力」と言っているんだと思います。

「他力」とは「恩寵」のことですね^^

高次ヒーリングも恩寵

あとよくオススメしている天啓気療も「恩寵」による作用です。

北沢さんがヒーリングエネルギーを出しているのではなく、
恩寵によりヒーリングが起きるということですね。

瞑想会・祈りの会で起きる恩寵

毎月の瞑想会(リアル、オンライン)や祈りの会では、こうした恩寵がもたらされやすくなっていて、その恩寵が感じられるんだと思います。

ありがたいことです^^

「私が瞑想をする」の限界

結局、瞑想は、
「私」が瞑想ができるようになる
「私」の意識が高くなる
「私」がエネルギーを感じられるようになる
「私」が・・・

というものではいということですね。

むしろ、恩寵がもたらしているさまざまなことを「私のもの」「私が修行した結果のもの」といった「手柄」にしてしまいますと、やがて「苦しみ」に変わってまいります。

元々、「自分のもの」ではありませんのでね。

それらをつかんでしまえば、苦しみになるのは自明の理ですね。

瞑想がもたらす高次の美徳を、「我が物」といった感覚でとらえると、精妙な苦しみをもたらすようになります。

恩寵に身を任せる

逆に、恩寵に身を任せていますと、「自分」とい狭い観念が小さくなっていて、広大さを感じる、慈しみがあふれてくるようになってまいるかと思います。

最初はそれが「リラックス」「弛緩」として感じられることも多いかと思います。

瞑想では「リラックスが大事なんですよ」ということにもつながってまいりますね。

恩寵の尊さ

ということでして、昨日いただいたご質問について、改めてお答えさせていただきました。

恩寵。

瞑想は自分がすることから始めても、自分ではない「恩寵」がもたらすように進んでいくもの。

で、瞑想会や祈りの会は、恩寵がもたらされやすい場なんですね。

しかも参加されている皆さまのお気持ちや姿勢が、恩寵に響きやすくなり、その結果、参加されている皆さまにも、より濃厚な恩寵がもたらされる。

そんな素敵なスパイラルになっているんじゃないかと思います。

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