瞑想指導者の陥穽(グルイズムと依存)~知らず知らずのうちに育つエゴの問題

瞑想指導者・ティーチャーの陥穽

瞑想を指導する人(ティーチャー)には、思わぬ陥穽(落とし穴)があったりします。

それが

・グルイズムに陥る
・依存されてしまう

になります。
この2つは、リスキーな落とし穴として有名ですね。

グルイズムの怖さ

グルイズムとは、瞑想指導者や教祖に対して、絶対的な忠誠を尽くし、絶対的に服従する様をいっていますね。

が、実際は、そこまで徹底したグルイズムになるのは珍しく、「プチ・グルイズム」といったケースが多くなると思います。

ちなみに正真正銘のグルイズムは、大概、カルトになります。

実際は、そんなマジもんのグルイズムではなく、「ちょっとグルイズム的」といった感じになると思います。

が、「プチ・グルイズム」「ちょいグルイズム」であっても、グルイズムであり、やはりリスクがありますね。

というのも、「プチ・グルイズム」であっても、生徒は、指導者を絶対的に受け止め、自分の頭で考えることはしないで、盲目的に従属することが基本姿勢となっているからです。

が、これでは、精妙な心や意識を扱う文脈では、雑過ぎて、そもそもお話しにならないんですね。

また、この関係性は「支配・被支配」といった関係そのものだったりします。

そう、グルイズムが危険なのは、人間関係が「支配・被支配」の関係になってしまうからだったりします。

支配・被支配の関係は便宜的・機能的

グルイズムの関係性は、「支配・被支配」の関係になるわけですが、この関係は、

・緊急時
・一致団結して目標を達成する必要があるとき

といった「軍隊」などの緊急事態や、戦いが本質な「企業活動」、統一性が求められる機能的集団・官公庁組織で、やむなく採用される関係であり組織であると思っています。

そもそも企業もそうですが、「支配・被支配」で貫かれた隷属社会です。

これは企業が営利を目的としている集団であり、油断すればライバル企業に負けて陶太されてしまう宿命を、現在の地球の経済システムは内包しているからですね。

官公庁の場合は、画一的なサービス提供するため、末端の作業者まで確実に管理する必要があり、支配・被支配の関係がどうしても求められてしまいます。

やむを得ないわけです。

ですので、よほどのことが無いかぎり、軍隊や企業といった戦う状況や、統一性が求められる場合は、リーダーの指揮下の元、「支配・被支配」の関係を「便宜的」に使って目標を達成しようとします。

が、本来は、あくまで「便宜的」であって、「機能的」な関係なわけですね。

グルイズムでは瞑想は進まなくなる

ところが、瞑想といった精妙な心の領域を扱う場合、無理がないこと、ナチュラルなことが、さまざまな面で求められるようになります。リラックスもそうですね。

ところがグルイズムは、その本質が「支配・被支配」であるため、そもそもナチュラルな関係ではないんですね。

一言でいえば、不自然。

瞑想にもいろいろとありますが、各人が内在している叡智や神的な感性、プレゼンスといった高次な意識に開眼していく場合、便宜的であり機能的である人工的な人間関係「支配・被支配」の関係性(グルイズム)は、長期目線に立つと、かえって障害になるわけですね。

不自然な関係は、不自然な土壌であり、こうした土壌では、人が内在する叡智や高次の意識に開眼しにくくなります。なので、グルイズムはよくない。

少なくとも、私は、そう感じています。

ただし、その生徒さんに、元々いろんな問題がある場合は、ある地点までは「支配・被支配」といったグルイズム的な関係が功を奏す場合があります。

しかし、それはあくまで便宜的であって、応急的であって、いつまでもそういう関係ではよろしくありません。

そもそも、グルイズムの関係性では、その先の精妙な領域への開眼が困難になります。

脱グルイズムが望ましい

叡智、真我意識、プレゼンスなどの高い意識に開眼していくには、ナチュラルなコミュニケーションが欠かせなくなると感じています。

もちろん指導者に対するリスペクトは必要です。が、「支配・被支配」のように服従するような関係性では困ったものなんですね。

「支配・被支配」の関係性では、知性がうまく働きにくくなります。会社では褒められるかもしれませんが、精妙な心を扱う瞑想などの文脈では、むしろ困った有り様になります。

結局、グルイズムは、動物社会の関係性なんですね。知性や知能がうまく働かず、思考停止に至らせるようになる。

ですので、先生に対してリスペクトはするものの、自分の頭で考えたり、工夫をして取り組むようにすることは大切なんですね。智慧を育むことは大切なことです。

先生を過剰に崇拝したり、絶対視はしない^^;

もっとゆるやかで、わりと普通に話しのできる、そんな関係性が望ましくなると思います。

ですので、精妙な心の領域や意識を扱う瞑想では、グルイズム(支配・被支配の関係)はナンセンス過ぎて、お話しにならないんですね。

そもそもグルイズムに陥ること自体、不自然な関係です。そこには「気づき」「精妙な配慮」が無いことを端的に示しているわけです。

愚かといいますか^^;、大事な感覚が麻痺しているとしか思えなくなってきます。

依存体質の方がグルイズムを引き起こす

で、グルイズムと関連するのが「依存」です。

依存は、指導者や先生に対して、やはり絶対視してしまったり、隷属してしまうのが本質なんですね。

で、実のところ、依存しやすい生徒さんが、グルイズムを引き起こすことが多々あるように見受けられます。

指導者や先生への尊崇の念が昂じてしまい、神の如く敬ってしまう。その気持ちは尊いんですが、実際にかたちにしてしまうと、その集団がグルイズム的になってしまうことも。

そもそも、真我にいくら深く開眼し、体現しても、生来の困った性格や気質は残ったままのケースが多いんですね。で、これを頬被りして隠しているティチャーも結構いらっしゃいます^^;

が、真我は悟りではありませんので、かならずエゴが動き出すんですね。

で、指導者が内在しているエゴを、依存体質の生徒さんが引き出してしまうことが、ままあります。

依存の問題は厄介

人の中には、依存体質の方がいらっしゃいます。

で、依存体質の方は、親子関係が「支配・被支配」だった方も多く、人間関係そのものが「支配・被支配」となりやすいところがあったりします。

「支配・被支配」の関係は、企業や戦いの場では、評価されることはあります。というか、忠実で優秀な社員、部下といった太鼓判を押されることもあるでしょう。

けれども瞑想や普通の人間関係といった文脈においては、緊張のある関係や不自然な関係になることが多く、その歪(ひず)みがエゴを育む素地になりやすかったりします。

「依存」と「グルイズム」とは、表裏一体のところがあります。

依存されるリスク

依存は、一見すると素直な生徒にも映ります。

しかし、その生徒の本心は「支配・被支配」「隷属」の関係を求めていますので、長い目でみると、指導者も生徒も破滅への道に至りやすかったりします。

先生も、依存される関係になじんでしまうと、そこに妙な心地よさを感じてしまうようになってしまいます。

で、知らない間に、依存する生徒であることを「当たり前」としてしまう。

言い換えると、不自然な関係を「当たり前」としてしまう。

これは結構、怖いことだったりします。

妙な心地よさ---エゴを満たす心地よさ---であるため、麻薬のように蝕む怖れもあります。

依存は、ご本人にとってもマイナスであるばかりか、依存された先生にとってもマイナスになる関係だったりします。

一見すると素直で聞き分けのよい生徒に映りますが、これまた長い目でみると、先生のエゴを増長させてしまう怖れがある、ヤバイ有り様だったりします。

少なくとも、私はそう感じています。

依存は、プチ・グルイズムを生み出すリスクがあります。

有身見が根絶しない限りリスクはあり続ける

瞑想は、心や意識の精妙な領域を扱いますので、教える・伝えるといった先生という立場になる場合も、細心の注意が必要であると感じています。

「私」という有身見が根絶し、悟らない限り、自我の肥大が起きるリスクは、ずっとつきまといます。

真我に開眼しても、エゴの増大は起き得ます。

実際、真我に深く開眼した指導者、霊能力・シッディに長けた指導者であっても、エゴの肥大化が起きているケースがあります。

クリシュナムルティの事例は、近年、有名な話しにもなっています。

また最近、世界的にも有名な指導者が、グルイズムになっていたことや、その指導者の人間的な問題が、関係者を悩ませているという話しも聞いたものです。

そう、真我開眼は、悟りでないため、「私」が根絶していません。

「私」が拡大し、宇宙意識化・広大化していても、認識そのものが変容していないため、「私」が残っています。広大化した意識のため、「私は無い」と錯覚しているに過ぎません。

本当は「私」そのものが脱落していません。だから「私」がいろんなところで出てしまうわけです。

真我に達してもエゴの増大が起き得る

真我にいくら深く開眼しても、それは悟りではありません。「私」が残っている。

だからエゴが知らない間に増長するリスクがあります。

真我にいくら深く開眼しても、「広大な私」「無我となった私」という、新たな「私」が存在しています。

ですので、悟り---井上義衍老師系の坐禅---が望ましくなり、本当に悟りに達しなければ、エゴの問題は無くなりません。

つまり本当に悟らない限り、「グルイズムの問題」や「依存の問題」といった、「支配・被支配」の関係が招く「エゴが増大」するリスクは、いつまでもついて回ります。

それ故に、悟っていない指導者は、細心の注意をはらって、エゴが大きくならないように、生徒との関係にも注意を払う必要があると感じています。

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